とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

愚の力

 キャンペーン協賛(笑)「秋の夜長は読書とブログ
 筆者の大谷光真氏にお会いしたことがある。実に質素で俗味の抜けた自然体の人だった。これまでキリスト教関係の本は何冊も読んできたが、仏教関係の本は「世界は宗教で動いている」などのように世界の宗教を横並びで説明した本以外は読んだことがない。葬式や法事でお坊さんの講話を聴いて、すっかりわかった気になっていたのかもしれない。
 本書を図書館で見つけた時、大谷門主はどんなことを書いているのだろうと興味を持った。そして、生き方を説くでもない、自分のことを語るエッセイのようで、傍に寄り添いながら自然に仏教の道に気付かせる、そのやさしい文章にお会いしたときの人柄を思い出した。煩悩や世迷言を自然と受け入れ、そして導いてくれる。
 巻末に門主に就任して数年後に公表したという「教書」が置かれている。最初に「人間中心の生き方」を諌め、そして「教書」に書かれた「罪悪生死の凡夫であることにめざめた、喜びと慚愧の生活」の意味について、全体を通して説明していく。
 人間は死ぬもの。「悩む」こと、「気づく」こと。途中で、「親鸞聖人の生き方」を挟み、末通らぬ者としての「愚」を自覚する。愚者ゆえに救われ、慚愧するゆえに喜ぶ。その悟りの上に、自然体の生き方がある。大谷門主のように。
 本書は東日本大震災前の2009年に書かれている。そして来年6月には長男の光淳氏に門主を継承することが決まっている。光真氏がその後どんな人生を送られるのか、社会的な活動が注目される。

愚の力 (文春新書)

愚の力 (文春新書)

●自分の存在の根本が自覚されればされるほど、自分の姿が愚者であるとしか言えなくなってくるということです。救いとは、自分の姿を知らされると共に、阿弥陀如来によって支えられているという深い目覚めが伴います。救いは煩悩を抱えているからこそあるのです。煩悩を抱えているという批判的な要素と、煩悩があるからこそ救いがあるのだという二つの面があります。自覚と救いは一対になっているのです。(P74)
●私の内側に私の力の及ばないものがある。自分が外側からかき集めて来たものは実はまったく役に立たない、そういう存在である自分を自覚すること、それが「愚者になる」ということなのです。(P134)
●抜きがたい苦悩や罪悪を抱えた、修行も善行も末通らない、とてもほうってはおけない状態にある。それ故に阿弥陀如来は「そのまま救う」といわれるのです。そのままの私が全面的に肯定されているわけではありません。・・・「慚愧」とは、わが身を恥じるということです。救われねばならない私であると気づくということがまずは大切です。その上で、救わずにはおれないと阿弥陀如来に願われていることに気づかされた今を背負って、未来を生き得るということになるのです。だからこそ「慚愧」という行為を通じて、「喜び」が開けることになります。(P157)
●すべては苦である、即ち「一切皆苦」を前提として、世の中を理解するのが仏教なのです。人間のありのままの姿、存在構造を苦と見極め、苦の原因を煩悩であると明らかにして、その上で求められるべき理想の姿としての苦滅を願うという、現実から理想へと向かう軸を立てるのです。そして、この軸に照らして現実の自分の姿が、一体何に向かおうとしているのかが問われねばなりません。私が問われねばならないというそのことに、まず気がつくというのが仏教なのです。(P168)