とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

プレミアリーグ第14節 レスター対トッテナム

 CLやカップ戦も重なる中でプレミアリーグは厳しい日程。週半ばの28日・29日には第14節が開催された。12位レスターは5位トッテナムとの対戦。2戦続けて先発から外れた岡崎だったが、3試合ぶりに先発に戻ってきた。この間、1敗2分。これまでグレイを中心に中盤を作ってきたピュエル監督だったが、このゲームではバーディーと岡崎の2トップ。右SHマフレズ、左SHオルブライトンと好調だった頃のメンバーに戻っている。左SBにはチルウェルが先発した。一方のトッテナムもこのところリーグ戦では1勝1分2敗。首位マンCとの勝ち点差も早や13ポイントと引き離され、これ以上は負けられない状況だ。サンチェスを中央に左CBフェルトンゲン、右CBダイアーが並ぶ3バック。左WBローズと右WBオーリエが高い位置を取って、中盤の底にはデンベレとシソコ。FWはケインと中に左FWアリ、右FWエリクセンが控える3-4-3の布陣だ。

 序盤はホームのレスターが積極的に攻めていった。5分、CHディディのミドルシュート。9分には左SHオルブライトンのCKからCBモーガンがヘディングシュートを放つ。左WBローズがライン上でクリアする。そして13分、左SHオルブライトンからの早めのクロスにCFバーディーが抜け出し、GKの手前でループシュート。これが決まり、幸先よくレスターが先制点を挙げた。

 反撃するトッテナムは16分、右SBシンプソンから左WBローズがボールを奪うと、左FWアリがつないで、CFケインの落としからCHシソコがシュート。GKシュマイケルが身体に当てるナイスセーブ。こぼれ球もライン上でCHイボーラがクリアした。レスターは守備の意識も高く、しっかりとプレスをかける。特に岡崎はいつもよりも下がり目のボールの近い位置でプレスをかける。

 32分、トッテナムはカウンターで右FWエリクセンがボールを運ぶと、右に流してFWアリがシュート。しかしこれもGKシュマイケルがファインセーブ。ゴールを許さない。40分過ぎ位からトッテナムがレスター・ゴールに迫る展開が続くが、レスター守備陣が集中してよく守る。そしてアディショナルタイム46分、右SHマフレズがカウンターで持ち上がると、中へ切り返してミドルシュート。これがゴールに吸い込まれ、前半終了間際、レスターが追加点を挙げた。マフレズがシュートを打つ前にOH岡崎が右WBオーリエを引き連れてゴール前を斜めに走ったのも見逃せないポイントだ。岡崎は地味だが、いい仕事をしている。前半で2-0、レスターのリードで折り返した。

 後半2分、CFケインがミドルシュート。10分、レスターも左SBチルウェルのスルーパスにCFバーディーが走り込み、落としたところを左SHオルブライトンがクロス。OH岡崎がフリーでヘディングシュートを放つが、バーの上を越える。惜しい場面だった。その後は両者互角の展開が続く。岡崎もよくプレスに走っている。12分、トッテナムはシソコに代えて左SHソンフンミンを投入。ダイアーをボランチに上げて4-2-3-1に変更。アリをトップ下に、エリクセンを右SHに回した。

 攻めるトッテナムだが、なかなか打開ができない。24分にはデンベレに代えてFWジョレンテを投入。エリクセンボランチに下げる4-4-2。ソンフンミンは右SHに回る。30分、右SHソンフンミンのクロスからCHエリクセンがシュート。しかし枠を捉えられない。すると32分にはエリクセンに代えてラメラを投入。めまぐるしくポジションを変更するトッテナム。これでまたソンフンミンは左SHに戻り、アリが上がり目の4-1-3-2。レスターも32分、右SHマフレズに代えてグレイを投入した。

 34分、左SHソンフンミンから右に回して、右SHラメラのスルーパスにFWケインが走り込みシュート。ようやくトッテナムが1点を返す。37分には右SBオーリエのクロスにFWジョレンテがシュート。しかし枠を捉えられない。レスターは38分岡崎、43分にはバーディーを下げて守備を強化する。そしてタイムアップ。2-1。レスターが逃げ切って、4試合ぶりの勝利を挙げた。

 やはりレスターには岡崎が必要だ。バーディーの動き出しが速いので、マフレズやオルブライトンといったサイドプレーヤーからの長いパスが有効。そしてどうしても長くなる守りの時間に岡崎の前からのプレスが効いてくる。ピュエル監督もこれでようやく岡崎の重要性が理解できただろうか。次のバーンリー戦はどういう先発メンバーで戦うのか。岡崎の起用が楽しみだ。

街場の天皇論

 「日本の覚醒のために」に続いて内田樹を読んだ。昨年の天皇の「象徴としてのお務め」に関するおことば以来、天皇制や現天皇に対する関心が高まった。その後、今年に入って退位特例法が制定され、退位の時期や新元号の制定など、着々と退位に向けた検討が進められている。こうしたことと併せて、現天皇が様々な場で語られた言葉や行動にも多くの注目が集まっている。現天皇をどう捉えるかは人それぞれに色々な考え方があるだろうが、私自身について言えば、昨今の天皇のお言葉には親近感を覚え、天皇の存在やお考えに肯定的な気持ちを抱くことが多くなった。本書は、天皇制の意味や必要性を肯定的かつ理論的に捉えて、こうした天皇観を補強してくれる。本書の中で内田自身が正直に「考えを変えました」と表明している点も好ましく感じる。まさに日本は天皇制の国なのかもしれない。

 一方で、こうした天皇を自らの政治野心のために利用しようとする輩が、これまでも絶えず、今また跋扈していることは憂慮に絶えない。こうしたことなども含めて、内田樹が丁寧に説明をしてくれる。本書は様々な媒体で書いたり語ってきたものを集めて編集したものであり、特に2部以降は、直接、天皇制等について語っているわけではないが、民主主義や安倍政権、自民党改憲草案などに関する記事を読むと。さらに天皇制の意義や意味が見えてくる。また、書き下ろしの特別篇「海民と天皇」では、源平合戦の真実を妄想的に描いている。これもまた面白い。

 天皇の存在というのは意外に現在の日本の政治状況において、大きな政治的意味を持っているかもしれない。昨年の天皇のおことばは、参院選に勝利して改憲の動きが出てきた政治状況において、「安倍首相に改憲を思いとどまるようにとのシグナルを送った」(P38)という海外メディアの解釈は確かにそうなのかもしれないと思う。

 

街場の天皇論

街場の天皇論

 

 

○「象徴的行為」という表現を通じて、陛下は「象徴天皇には果たすべき具体的な行為があり、それは死者と苦しむものの傍らに寄り添う鎮魂と慰謝の旅のことである」という「儀式」の新たな解釈を採られた。そして、それが・・・具体的な旅である以上、当然それなりの身体的な負荷がかかる。だからこそ、高齢となった陛下には「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくこと」が困難になったという実感があった。(P16)

天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願することであること、これは古代から変わりません。陛下はその伝統に則った上で、さらに一歩を進め、象徴天皇の本務は使者たちの鎮魂と今ここで苦しむものの慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。・・・現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(P17)

靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂することを知っているから、そうするのである。/どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。(P61)

○僕は久しく天皇制と民主主義というのは「食い合わせが悪い」と思っていました。でも、今は考えを変えました。食い合わせの悪い2つの統治原理を何とか共生させるように国民が知恵を絞る、その創発的・力動的なプロセスが作動しているということがこの国の活力を生み出している。その方が単一の統治原理で上から下まですっきり貫徹された原理主義的な国家よりも「住み心地がよい」。そう考えるようになりました。(P71)

自民党改憲草案は今世界で起きている地殻変動に適応しようとするものである。その点でたぶん起草者たちは主観的には「リアリスト」でいるつもりなのだろう。けれども、現行憲法国民国家の「理想」を掲げていたことを「非現実的」として退けたこの改憲草案にはもうめざすべき理想がない。誰かが作りだした状況に適応し続けること、現状を追認し続けること・・・つまり永遠に「後手に回る」ことをこの改憲草案は謳っている。(P151)

○海部は・・・水と風の自然エネルギーを・・・飼部は・・・野生獣の自然エネルギーを・・・。海部と飼部はいずれも野生のエネルギーを人間にとって有用な力に変換する技術によって天皇に仕えたのである。/とすると、この職能民たちの間で、「どちらが自然エネルギー制御技術において卓越しているか?」という優劣をめぐる問いが前景化したということはあって不思議ではない。・・・そして、そう考えた時に「なるほど、源平合戦というのはこのことだったのか」とすとんと腑に落ちたのである。(P208)

 

日本の覚醒のために

 2011年から15年に行われた6つの講演録を収録したもの。他に付録として短いスピーチが1編。テーマは「資本主義」、「宗教」、「伊丹十三」、「言語」、「白川静」、「憲法」の6つ。どれも面白いが、中でも「伊丹十三」と「言語」が面白い。

 「伊丹十三と『戦後精神』」が正確なタイトルだが、これは第3回伊丹十三賞受賞記念講演会でのもの。伊丹十三が20代の頃に書いた「ヨーロッパ退屈日記」を牽きつつ、同時代人の江藤淳吉本隆明大江健三郎と並べて、いわゆる戦中派の人々がどんな人生を生き、何を思ってきたか、といったことを考える。そして今、順次、死期を迎えようとしている彼らの経験と思想の重要性を考える。

 また、全国高校国語教育研究連合会で話した「ことばの教育」と題する講演では、「『種族の思想』は、それぞれの母語によってしか表現できない」こと、そして「グローバルであるというのは、すべての人に世界標準を提出する権利があるということ」だと喝破する。まさにそのとおり。我々はやはり日本語を最も大事にしていかなくてはいけない。そうでなければ真の意味で考えることも、感じることもできない。

 その意味では、アメリカン・グローバリズムイスラームグローバリズムの闘争というのは興味深い。もちろん日本人である私はイスラームグローバリズムの側だ。そして、国は水平的な領域だけでなく、時間的な祖先・死者から未来の子どもたちに至るまでを含む「共生体」という言葉にも強く共感する。

 最近は内田樹も、「また同じこと」と思ってしまうが、たまに読むとやはり面白い。これからもめぼしい本は読んでいこうと思った。

 

日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)

日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)

 

 

○本来の国というのは空間的に表象できるものではないと僕は思っています。・・・それと同時に垂直方向、すなわち時間の中で生きているものでもあります。この国の構成メンバーは、同時代に生きている人間たちだけではありません。そこには死者も含まれているし、これから生まれてくる子どもたちも含まれている。その人たちと、多細胞生物のような共生体を私たちは形づくっている。それが国というものです。(P054)

○アメリカン・グローバリズムイスラームグローバリズムの間で一種のヘゲモニー闘争が展開している。・・・イスラーム共同体の基本原理は、遊牧民の組織原理ですから、根本にあるのは相互扶助と喜捨です。・・・この相互扶助と喜捨の倫理はアメリカン・グローバリズムとはまったくそりが合いません。合うわけがない。新自由主義者たちのルールは、「勝った者が総取り。負けた人間は野垂れ死にしても、それは自己責任」というものだからです。(P074)

○言語の政治ということに関して、日本人はあまりにイノセントだと僕は思います。言語というのはきわめて政治的なものだからです。/英語が世界の共通語になったのは、英米という二つの英語国が200年にわたって世界の超覇権国家だったからです。それだけの理由です。・・・ですから、どんな国も、その政治的・軍事的実力が高まると、周辺の国々の固有の国語を禁圧して、「おのれの母語を共通語にする」という野心に取り憑かれます。(P221)

○僕はすべての国や地域の、すべての言語はそれぞれに固有の創造性を有していると思っています。それぞれの「種族の思想」は、それぞれの母語によってしか表現できない。そして、それらの一つひとつすべてが「人類の共通財産」だと僕は思います。・・・グローバルであるというのは、全ての人が世界標準に従うということではありません。すべての人に世界標準を提出する権利があるということです。(P229)

○アメリカ政府の政策には反対だけど、アメリカのカウンターカルチャーには共感するという数億人規模の「アメリカ支持者」を世界中に作りだした。それが結果的には「あれほど反権力的な文化が許容されているってことは、アメリカってけっこういい国なんじゃないか」というアメリカ評価につながってしまった。ソ連カウンターカルチャーはないけど、アメリカにはある。最終的に東西冷戦でアメリカが勝った理由はそこにあるんじゃないかと僕は思っています。(P336)