とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「追悼」と「平和を祈念する」こと

 土曜日の午前中、雑用をしていたら、突然、高校野球が終わり、全国戦没者追悼式の中継が始まった。例年は正午に鳴るサイレンで「あ、今日は終戦記念日か」と思い、皆に従って静かにしているだけ。その意味を深く考えたことはなかった。今日は珍しくTVを見続けた。
 君が代斉唱の後、麻生首相の式辞が始まった。しょせん誰かの書いた原稿を読み上げるだけだが、「被害を与えたアジア諸国の人々に・・・哀悼の意を表します。」と読んだ後、場内に向けてギロッと目を向けた。「俺は指示されたとおり原稿を読んでいるぞ。」とでも訴えているようだった。書かれた意味をどこまで理解していたか。
 続いて、天皇皇后陛下が祭壇に向かい、静かに黙礼する。常に皇后陛下が一歩下がり遅れて付いていく姿が印象的。正午の時報とともに黙祷のサイレンが鳴り響く。
 その後、進行者が「天皇陛下のお言葉をいただきます。」と言われたので、総理大臣と同様、追悼式に参列した人々の方に向き直って話されるのかと思ったら、祭壇に向かう姿勢のまま、戦没者に語りかける調子で折りたたまれた原稿を広げ読み始めた。
 この後、参議院議長や戦没者遺族代表らによる追悼の辞があったが(ちなみに衆議院議長は欠席らしい)、中継はここで切られたので、どちらに向けて話されたのかは不明。
 式辞は「これから式典を行いますよ。その趣旨はこうこうで私はこう考えます。」といったことを参列者に説明し挨拶するものだから、参列者に向かって話したのだろう。天皇陛下と追悼者の辞は、残された者から戦没者に捧げる言葉なので祭壇に向かう、と考えれば理に適っている。
 8月6日には広島で平和記念式典が、9日には長崎で平和祈念式典が開催された(ちなみに広島は平和記念公園で開催されるので「記念」と書き表されるが、式典の名称は祈念式である)。これらはいずれも原爆犠牲者を慰霊するとともに平和を祈念する式典である。
 今日の全国戦没者追悼式は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に行われるが、あくまで戦没者に対する追悼が目的のようだ。「追悼」とは「死者の生前をしのび、その死をいたみ悲しむこと」。「いたむ」とは「人の死を悲しみ嘆く」こと(by goo辞書)。
 幸い戦没者に知り合いはいないが、彼らが戦争暴力により予定せぬ死を与えられたことは同情に値する。私の母は病の末の死だったが、戦没者たちは生命力は満ちた中での暴力的な死だったことを思うと、その無念さに心が痛む。ここまでは「追悼」の意である。
 「追悼」の思いに深くし、次に「平和を祈念する」。この言葉には、自分自身が平和を壊しませんという「自省的な誓い」と、自分以外の他者が平和を壊す行為をしませんようにという「他者への願い」に分けられる。さらには、平和の継続に向けて行動し寄与していこうという「外向的な思い」も含まれるかもしれない。「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とはこうした精神的な営みを国民が行おうという趣旨だと思われる。
 「追悼」と「自省的な誓い」、「他者への願い」は誰もが感じることだろうが、「外向的な思い」の内容は人それぞれ。「何もできない」「何もしたくない」と思う人もいれば、「平和のためには核兵器を保持すべき」と考える人もいるかもしれない。麻生首相は何を考えたか。何となく、式典終了後の会食や会合のことでも考えていたような気がする。