とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ひとり暮らし

 詩人・谷川俊太郎によるエッセイ集である。いくつかの雑誌等に寄稿した散文を集めた「私」と、雑誌「国文学」に寄稿した「空」「星」などの漢字1字に寄せて書かれたエッセイ「ことばめぐり」、及び「草思」に2年間に渡り連載した特定の1日の日々を綴る「ある日」の2章でまとめられている。
 この中では真ん中の「ことばめぐり」が圧倒的に面白い。詩人としての「言葉」や「詩」「詩人」に対する思いが文章の随所に散りばめられている。
 最近、詩をほとんど読んでいない。読もうという心境にもなかなかなれないのだが、そういう時間を持つことができれば、いや、あえて持つことが心にゆとりを生み、ストレスを発散させてくれるかもしれない。この短いエッセイを読んでいた時間だけでも、ほっとした気分になれたのはよかったと思う。

ひとり暮らし (新潮文庫)

ひとり暮らし (新潮文庫)

●心を動かすことのできる空間、あるいは隙間、そこにはいったい何があるのだろう。せめぎあう感情や思考とからみあって、それらを生かす意識しがたい何かがある。・・・それはともすれば固定されようとする感情や思考をほぐす働きをもつのではないだろうか。そして名づけることのむずかしいそれを、私たちはゆとりという仮の名で呼んでいる。(P19)
●年とって分かったことのひとつは、考えには結論というようなものは無いにひとしいということである。結論と思ったものは、自分を安心させるためのごまかしだったのだ。だがそのごまかしは多分無益なものではない。ごまかしからごまかしへと生きていく間に、真実が見え隠れするからだ。(P81)
●紋切り型ではとらえられない、曖昧な感情と認識の複雑さが詩句にあらわれていなければ、詩の魅力の大半は失われてしまうでしょう。(P124)
●自分が現実に感じていない気持ちや、自分のものとは言えない考えが入ってくるのが詩という形式のひとつの特徴だと私は考えていますが、詩の中のそういう意味での嘘はしばしば真実でありうるのです。そういう嘘が人間のいわゆる集合的無意識に根ざしていれば、あるいは日本語という言語の意識下の深みに達していれば、詩を書く人間は個人であることをやめ、一種の媒介者としてアノニムな役割を果たすことが出来るのではないでしょうか。(P134)
●詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩においては言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、・・・そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。作者である詩人はそういう「形」の中にひそんでいる。(P136)