とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

一九八四年

 今どき本書を読もうと思い立ったのはもちろん村上春樹の「1Q84」が出たためである。まだ読んでないけれど、そのための準備として。
 本書の書名と著者名は知ってはいたが、内容に対する予備知識は全くなかった。当初、理想社会主義者のロバート・オウエンと混同し、読み進めるうちにこれは違うぞとわかった恥ずかしさ。しかし、オウエンとは正反対の思想ながら面白いことこのうえなし。しかもここで描かれる権力側の大衆コントロールの手法は、現代人がまさに日常直面している現実ではないか。
 「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」のスローガンとともに語られる大衆操作、社会支配は、まさに心当たりがあると言うべきではないか。マスコミに支配され、権力者に支配され、支配されることに安住する私たち。
 この権力社会の対極として描く村上世界はどういうものか、今から大いに期待される。が、それ以前に、現代社会への疑いの目をさらに研ぎすます必要性を喚起された。まだ何も成果を出していないオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞する現実を前に、社会は人間の手で作られていくことを思い知った。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

●誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば・・・その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、”過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な真実を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から永遠に真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限なく続けることだけ。それが<現実コントロール>と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う<二重思考>なのだ。(P56)
●自由という概念がなくなってしまったときに、<自由は隷従なり>というスローガンなど掲げられるはずもない。思考風土全体が変わるのだよ。実際、われわれが今日理解しているような思考は存在しなくなる。正統は思考することを意味するわけではない。その意味するところは思考する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ」(P83)
●ある意味では、党の世界観の押しつけはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしようが、かれらにならそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているのかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているのかに気づくほど社会の出来事に強い関心を持ってもいないからだ。理解力を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。(P241)
●かれらは個人の引き受ける忠誠義務というものを疑うことなく信じ、それに従って行動した。重要なのは個人と個人の関係であり、無力さを示す仕草、抱擁、涙、死にゆくものにかけることばといったものが、それ自体で価値を持っていた。そうだ、プロールたちはそうした状態のままに留まってきたのではないか、不意に彼はそうした思いに捉われた。かれらは党や国や観念に忠誠を尽くしたりはしない。お互いに忠実であろうとするだけだ。(P254)
●君は現実とは客体として外部にある何か、自律的に存在するものだと信じている。さらにまた、現実の本質は誰の目にも明らかだと信じている。自分に何かが見えていると思い込む錯覚に陥ったときには、同じものが他の誰の目にも自分と同じように映っている、と君は勝手に想定するわけだ。しかし、いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかだけに存在していて、それ以外の場所にはないのだよ。(P385)
●ひとたびニュースピークが採用され、オールドスピークが忘れ去られてしまえば、そのときこそ、異端の思想―イングソックの諸原理から外れる思想のことである―を、少なくとも思考がことばに依存している限り、文字通り思考不能にできるはずだ、という思惑が働いていたのである。(P480)