とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「ものづくり」におけるいい死に方

 先日、久しぶりに高校時代の友人と呑んだ。大学も一緒で交流もあったが、学部が違うこともあり、卒業後はほとんど会っていない。いや、同窓会で会ったかな。ま、じっくり二人で呑むのは久しぶり。もっともそれぞれ一人ずつ同僚が同席したので、厳密には二人だけではなかったが・・・。
 彼は某自動車会社に入社して大出世。この6月に子会社へ役員で出向した。子会社での話も興味深かったが、記憶に残ったのは「ものづくり」における次の話。
 「最近、うちの技術者は、いかにいい死に方をさせるかを考えて設計をしている」
 ガス給湯器や電化製品で長期間利用されたものが死亡事故を発生させていることを踏まえ、死亡事故にはつながらない壊れ方をするように設計している、という話だ。
 住宅では、国は200年住宅などと言い、長期優良住宅など長期間にわたって利用できることが良いことだという意識がある。これは環境的な観点から言われることだが、「死亡事故にはつながらない壊れ方」ということでは、建築基準法地震時に「損壊」はしても「倒壊」はしないという思想で設計をしている。「倒壊しない」=「死者は出さない」ということだから、ある意味、建築の方が自動車よりも先進的な設計を行っているのだろうか。
 だが一方で、街や家族の変遷、機能の陳腐化などを考えると、長寿命であればいい、というわけでもなさそうだ。無駄に長寿命であるよりは、適度な寿命がいいのかもしれない。
 これに関連して、友人の口から二つの話があった。一つは「わが社の住宅はボルトを外せば再度組み立て直すことができる」という話と、「某高級車のオーディオは再生品を使っている」という話だ。
 住宅も再利用できる造り方をしようというのは、時に言われる言葉で、伝統的な木造住宅では例えば、腐った柱の一部分だけを取り替えることも可能だ。プレハブ住宅メーカーでもそういうことは可能だろう。
 後者にはちょっと驚いたが、環境配慮のためでユーザーにも好評だと言う。(少しマユツバ。「古いスピーカーの方が音がいいんですか」と呆けてしまった。)
 そんな話を昨日いつもの鍼灸院で話したら、「だから日本の自動車メーカーはダメなんだ」と先生の逆鱗に触れてしまった。「昔は20年以上保つクルマを造るのが日本の自動車メーカーの誇りだった。それが今は現代などの韓国メーカーがそうした丈夫なクルマを造り、日本はそのへなちょこ設計思想の下で、10年かそこらで壊れるクルマを造っている。そしてどうせ10年しか乗れないんだからと、内装の質も落として価格競争をしている。そんなクルマが売れるわけがない。こんなことじゃ日本のクルマはダメになる。もっとも俺は既に外車に乗り換えたがな。」と一気にまくし立てられた。
 確かに最近のクルマはモデルチェンジをするたびにチープになっているような気がする。わが家のクルマも既に7年を過ぎたが、モデルチェンジ後の内装のチープさに買い替える気も起らない。
 自動車などの消費財と住宅などの不動産とは違うかもしれないが、「ものづくり」における「いい死に方」について色々と考えさせられた。