とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ピッチのそら耳

 サッカーマガジンで連載中の同名のコラムから79本をセレクトして、Jリーグ、代表となでしこ、海外サッカー、そしてその他の4部に分けて掲載。サッカーマガジンはかつては上京の折に、最近は図書館で時々読むが、この「ピッチのそら耳」も好きなコーナーの一つだ。
 改めて読み返すと、1週間の出来事から筆者が特に気になったゲームや出来事を取り上げてていねいに感想を述べていることがわかる。それがけっして独善的ではなく、客観的で冷静だが、サッカーへの愛情が籠っている。
 私もこのブログで週に4〜5回はサッカー観戦記をアップしているが、私の場合は備忘録としてサッカーのゲームの流れをそのまま書き留めている。私が愛読している人気ブログ、例えば「blog版『蹴刊ガゼッタ』」「武藤文雄のサッカー講釈」はちゃんとゲーム全体を受け止めて感想や評価を述べているが、客観性と文章のきれいさでは「ピッチのそら耳」に及ばない。
 もちろんプロの商業用コラムと趣味のブログを較べるまでもないが、やはりプロは違うと感じさせる。しかも小田嶋隆らの奇を衒った主張などとも無縁。あくまで冷静に、公正に、かつ熱く深く。新聞社に所属するサッカーライターはかくあるべしという見本のようなコラム。でもやっぱり好きだなあ。またまとまったら本の形で読んでみたい。

●これだけ長く続けられたのは本人の努力、節制の賜物では一切なく、しみじみ思うのはサッカーというゲームの素晴らしさです。サッカーには一つとして同じゲームがない。毎試合、何かしら違っているから、書く内容も無理をしなくても、何かしら違ったものになる。サッカーのそういう奥深さにどれだけ救われてきたか知れません。(P3)
●試しに、試合中のロベルト・カルロスカフーに「あんた今、何やってるの? サイドバック? ウィングバック?」と聞いてみたらどうか。おそらく答えに窮するだろう。彼らはただ攻めるべきときは攻め、守るべきときは守っているだけだから。その「べきとき」に気づくのが戦術眼なのであり、肩書なんかで仕事はしていないと思うのだ。/日本の選手がシステム変更に対し妙にナイーブなのも、この肩書重視と関係があるような気がしている。・・・肩書イコール自分だから、肩書が変われば自分まで変わる気がして不安が先に立ってしまうのではないか。(P91)
●男子のフル代表のFWに希薄で、彼女たちに濃厚になるもの。それは、肝っ玉。/感動とは不思議なものだ。単純に技の高低やサッカーの質だけで語れないところがある。・・・ゲームに没頭する彼女たちの、ひたむきな姿の美しさ。・・・越えられないと思った壁を、全員で力を合わせて献身と犠牲的精神と勇気を振り絞って、しかも知的に乗り越えていく。何かこう久しぶりにチームスポーツの原点を見させてもらった気がした。(P151)
●日本のラグビー関係者はふた言めには「ラグビーのボールは楕円だから、地面に落ちるとどこに転がっていくかわからない。それが面白いのだ」と喧伝する。/ところが外国には、跳ねる方向まで計算に入れた上で蹴っているとしか思えないような選手が必ずいる。・・・サッカーが”一般教養”として普及している欧州や南米では、・・・ボールを蹴る、足でさばくことにストレスがない・・・外国のラグビーを見ていて、一番実感するのもそこで「ああ、やっぱりこれはフットボールなのだ」と思わされることが多い。感じるのはキックの文化の厚み。(P182)
●スタジアムと団地。建造物としては似ても似つかないが、私にはその”官製なたたずまい”が妙に似ている気がしてならないのだ。・・・2002年日韓ワールドカップに合わせ、日本でもやっと個性的なスタジアムができるようになった。が、喜びは束の間で、4年後のドイツW杯で私は彼我の差に愕然とした。日本のスタジアムが過去(のスタジアム)を参考に造ったものだとしたら、ドイツのそれは未来を見越して造ったもの。そんな違いを感じたのだ。(P208)