とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

砂浜に坐り込んだ船

 久しぶりに池澤夏樹を読む。短編が8編。東日本大震災以降に書かれたものが6編。それ以前のものが2編。タイトルの「砂浜に坐り込んだ船」は震災前の作品ながら、座礁した船、それを眺めつつ先に死んだ友人と会話をするという震災を予感するような話。それ以外の7遍も「死」がテーマだ。

 震災後、東京の高層住宅へ避難した大熊町の住人が故郷に帰る「苦麻の村」。「大聖堂」は震災後、島に渡ってピザを作る少年たちの話。「イスファハーンの魔人」は正倉院に収納されるガラス製の瓶の複製を擦ったら魔人が現れるという奇想天外な話。魔人と共に父はあこがれのイスファハーンへ旅立った。「上下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」はまさに三途の川を渡って先に亡くなった姪に会う話だ。

 池澤夏樹の文体はどれも読みやすく、少年っぽい。親しみやすさの中に心の襞まで届く優しさが溢れている。そして心に染み入る。池澤夏樹はもう70歳になり、死と隣り合わせで生きている。でもそれは誰も同じだ。池澤夏樹を通して死後の世界を見てみる。そして深く心の底から安心する。

 

砂浜に坐り込んだ船

砂浜に坐り込んだ船

 

 

○身体というのは究極の私物だ。どう扱うも本人の意思のままでいいはずだ。それに、運命はそれ以上に私物だと思った。どこまでが助言でどこからが介入ないし狼藉か、自分にはわからなかった。友人は恋人や配偶者や親子と違って運命を共有する仲ではない。互いに自由だから言いたいことが言える。逆に言えないこともある。六週間後に彼は死んだ。(P34)

○見慣れた景色、知っている街並み、よく歩いた道路だ。/喉が渇いた者が水を飲むように私は目前の風景を目から吸収した。まるで自分が一塊の海綿のように思われた。・・・東京のあんなところで十年がかりで乾いてゆくくらいならばここで二週間で溺れた方がいい。(P59)

○「でもおもしろかったよ、あっち側」と安見が言った。「笑ったり怒ったり、日が照ったり雪が降ったり。生身の身体っていいもんだった。すぐ後に何が起こるかわからない時間ってよかった。手応えがあった」(P94)