とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

施す愛、受け取る愛。

 キリスト教では、愛を4つに分けて、アガペーをこそ真の愛、神の愛とする。4つとは、エロス(性愛)、ストルゲー(家族愛)、フィーリア(友人愛)、そしてアガペー(神の愛)。神の愛は無限・無償にして、敵さえも愛する、というのだが、旧約聖書を読むと、神は敵対者に対してけっこう酷いことをしている。愛ゆえに殺戮するのかな。

 それはさておき、妻の入院中から、妻の友人たちが何人もお見舞いに来てくれた。それでお返しをと思うのだが、まだ松葉杖をついてリハビリに通う状態では、いつ快気祝いを送ればいいのか迷う。中にはおかずを作って届けてくれる人もいて、それは助かるのだが、家事全般を担当している私としては、予定が狂ってしまい、困ることも多い。お菓子や果物も計画的に食べていかないと傷んでしまう。

 いろいろと頂くことはうれしいが、これはたぶんフィーリア(友人愛)なのだと思う。彼女らはたぶん困っている友人に施すことで、ある種、自己満足を得ているのではないか。それで私もフィーリア(友人愛)を発揮して、ありがたく受け取ることにしている。受け取ることで、彼女らの自己満足に貢献している。

 なんてことを口にしたら、妻にひどく怒られた。それはそうだろう。でも正直、受け取るばかりだと少し困る気持ちもある。施しを受けるのはけっしてうれしいばかりではなく、弱者に押し込められるような(レッテルを貼られるような)気持ちになって、反発したくなる。おかずくらいは私でも作れます。こんな時、金銭ってうまい発明だなあと思う。社会学的には贈与と返礼、いわゆる互酬性として語られる関係だが、まさに今そういう状況の真只中に置かれている。

 冒頭に戻って、愛について考えれば、妻へのお見舞いは、互酬性を前提に、快気祝いを期待してのギフトではなく、見返りは期待しないフィーリア(友人愛)としてのギフトだと思う。そうして改めて、愛の4区分について考えると、いずれも対象が違うだけで、無限・無償のような気がしてきた。だとすると、アガペーの特徴は、相手かまわず、敵でさえも愛する、という点にあるのだろうか。

 敵。すなわち、私を攻撃してくる者。敵をこそ愛する、というのは確かに誰でもできることではない。というか、旧約聖書だけでなく、最後の審判の場面だって、キリスト教の神は全然、敵を愛してないように思うのだけれど、そうでもないのかな。神は自分もしていないことを人間に要求しているんじゃないのか。いやこの場合の「神」とは、「神を騙る者」のことかもしれない。神になり替わって、絶対服従を強いる者。天皇を現人神というのは、意外にこのことを表現しているのかもしれない。

 話が大きくなり過ぎた。自分のことに戻って、アガペーは難しそうだから、受け取る愛に専念しよう。快気祝いは期待しないでね。