とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

邪悪なものの鎮め方

 またまたお馴染み、内田樹先生のブログから抜き出したコンピレックス本である。本書は2010年1月に発行されているから、私が読むまでに9ヶ月も経っている。別に数ヶ月や数年遅れても、内田樹の本は十分賞味期限内である。だからそれほど慌てることなく、市の図書館に納本されるのを待っていた。
 納本後もしばらくは予約を入れるのをためらった。というのもタイトルが「邪悪」だから。ほぼ同時に「現代霊性論」が出されたが、こちらは釈徹宗氏との共著で宗教論が主のようだが、仏教に対してほとんど知識も関心も薄いので、今のところ、先送り。
 内田本のうち、宗教関連と身体関係は一応読書対象から除外している。理由は「キリがない」ということと「関心が薄い」から。最近出された「街場のマンガ論」もストライクゾーンをはずれている。「おせっかい教育論」は関心はあるけど、図書館で借りよう。
 で、この「邪悪なものの鎮め方」も宗教論かなと思って最初敬遠していたが、図書館で検索していたら、どうもいつものコンピ本らしいとわかり、借りることにした。読み始めるといつもの内田節。けっこう覚えているものも多い。だからイヤじゃなく、心地よいからイイ。
 最後に引用した「小国」「大国」の論理は、「日本辺境論」でも全く同じ文章がなかったっけ? ま、面白いから、文句は言わないけど。
 ブックマークをしたけれど、「金融日記:戦争って意外と簡単にはじまるかも」の、「人々の自由意志を尊重する近代国家では、経済的な富の再分配は可能でも、こういった人の承認や異性をめぐる結果の不平等を再分配する方法はない。日本のような豊かな国では誰も餓えていないことを考えると、昨今の格差問題の本質は、金銭的なものではなく、実は後者のことを指しているいるのではないかと筆者は思っている。」という書き込みに対して、bobbob1978さんから「『神による承認』を通じて擬似的に再分配する機構が宗教の本質でしょう。」というコメントがあり、非常に面白かった。
 内田樹が言っていることも、結局そこに通じることなんだと思う。人間はどうして生きているのか。それは、社会の中で、死に向けて、家族とともに、生きるべくして生きている。別に経済や宗教や思想のために生きているわけではなく、生まれてしまったから生きている。ならば、死ぬまで生き続けるしかない。自分とともに、邪悪なものとともに、心地よく。そのことを再確認させてくれる。だからいつも同じことが書いてあるようだけど、たまに読むと精神を整え、心によく効く。人生のためのビタミン剤のようだ。

●なぜ、私たちは「父」を要請するのか。それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という「真実」に容易には耐えることができないからである。(P017)
●勘違いしている人が多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。/トラウマというのは記憶が「書き換えを拒否する」病態のことである。ある記憶の断片が、何らかの理由で、同一的なかたちと意味(というよりは無意味)を維持し続け、いかなる改変をも拒否するとき、私たちの精神は機能不全に陥る。(P073)
●道徳律というのはわかりやすいものである。それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。・・・世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。/この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。(P150)
●死ぬことは生物が経験できる至上の快である。だから、私たちはこれほどまでに死ぬことを忌避するのである。それは一度死ぬともう死ねないからである。(P201)
●小国には「小国の制度」があり、大国には「大国の制度」がある。「小国」では「いろいろなものを勘定に入れて、さじ加減を案分する」という統治手法が可能であり、大国ではそんな面倒なことはできない。だから、大国では「シンプルで誰にもわかる国民統合の物語」をたえず過剰に服用する必要が出てくる。小国が「したたか」になり、大国が「イデオロギッシュ」になるのは建国理念の問題や為政者の資質の問題ではなく、もっぱら「サイズの問題」なのである。(P238)