とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

子どもは判ってくれない

 またまた内田樹である。単行本は2003年、文庫版も2006年に発行されているのでもう4年も前の本である。有事法制改憲議論が取り上げられるなど、時代を感じさせる話題もあるが、内容的には全く今にあっても十分説得力のある話ばかりである。というか、内田樹の言ってることって10年経っても、全く変わっていない。
 それはいいことで、いつになっても安心して読み続けられるということ。しかしこれを書いていた頃は50代の初めだった内田も、もうそろそろ還暦を迎える。「ヴァーチャル爺のすすめ」なんてコラムもあったりして、内田樹は早くからそれを実践していた感があるが、本人が変わらないまま、年齢だけが増えていっている印象を受ける。それは多分すごいことなんだろう。
 まえがきに「この本の想定されている読者は『若者たち』である」と書かれているが、全く子ども向けではない。というか、途中から子どものことを忘れてしまったように、いつまでも子どもでいたがる大人たちを批判し、もっと大人になれと叱責する。
 しかし日本の大人面している知識人や政治家などに、なんと子ども大人が多いことよ。ま、私自身がそういう空気の中に生きて、若く見られることを喜んでいる。タイトルの「子どもは判ってくれない」で言う「子ども」とは、日本に多く生息する大人になり切れない大人たちを指している。私は内田樹の言うことをどれだけ判っているだろうか。読んだ時にはそのとおりと思うが、読み終わった途端に自分一人では大人の思考ができていないことに気付く。だからこそ、しょっちゅう内田本を読んでは大人になろうと努力している。

子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)

●「国益」とか「公益」を規定することが困難なのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーであるかぎり、その人たちの利益も代表しなければならないという義務を私たちが負っているからである。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく。どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。(P24)
●古人は、「私はいったい、こんなにむきになって、何バカなことやっているんだろう?」という醒めた省察を、・・・自ら想像的に創り出した、脱俗・老成した「システム外智者」の視座から行ったのである。これはきわめてコストパフォーマンスに優れた知的習慣であると私は思う。/「自分は若い」という想定は、すなわち「自分は現在の社会制度の諸矛盾について責任がなく、むしろ被害者である」という自己免責にそのままつながる。このような考え方が人を少しも倫理的にしないことについて、みなさますでにご案内のとおりである。/「ヴァーチャル爺の復活」。これが「日本人の生き方」についての私からみなさまへのご提案である。(P52)
●私たちが「残酷で強権的な社会の下でも生き延びるためにはどうすればいいのか」を考えるのは、そのような政治体制を決して実現しないためである。想像力というのは、現実に存在しないものを想像的に現出させるためだけに使うものではない。現実に存在してはならないものを決して現実化させないためにも用いるものなのである。(P95)
●「自分の主張は間違っている可能性もある」という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。(P176)