とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

休戦

 Amazonからのお勧めメールがあって購入した。アウシュヴィッツに収容され、ロシア軍侵攻により解放された後の母国イタリアに戻るまでの長い月日を描いた事実譚である。アウシュヴィッツの悲劇は知っていても、その後の出来事が話題になることは少ない。アウシュヴィッツを解放したロシア赤軍は大陸的というか無秩序というか、指揮命令も気まぐれ、監視誘導する兵やスタッフもいい加減で、著者たちは十把一絡げに貨車に詰め込まれ、収容施設を右往左往する。
 南に向かうべき中継地でなぜか北に送られ、地平線ばかりを見渡すロシアの大平原の中で牧歌的な生活を送る。一緒に護送される仲間も、このロシア的な環境の中でさまざまな生き様を見せる。「人生は戦争だ」というギリシャ人。狡猾に商売に奔走するイタリア人。規則を手前勝手に解釈して辻褄を合わせるロシア人スタッフ。横領、怠惰、売春、演劇、近在の集落市場での交易。いつ終わるともしれない放浪と収容の生活の中で、筆者も次第にその生活に慣れていく。いったい解放の日はいつやってくるのか。
 結局、冬の真っ只中の1月に解放された後、夏が通り過ぎた9月になってようやく、かつ突然にイタリアへ帰還できることとなった。列車に揺られてルーマニアハンガリーオーストリア、一時的にドイツを経てイタリアに至る。この間にもなかなか列車が進まない時期があり、駅周辺の住民との交流がある。アメリカ軍のロシア軍とはあまりに異なる合理性や規律に戸惑う場面なども興味深い。
 暗い結末といった評があったので最後にどんでん返しでもあるのかと思ったが、そうではなく、平穏な生活に戻ってなお、アウシュヴィッツでの体験がフラッシュバックしてくるということを語るのであった。
 アウシュヴィッツの出来事を読むのであれば、著者の処女作「アウシュヴィッツは終わらない」がある。本書はその後の解放までの日々の人間臭さ、猥雑な人間性を絶妙に描いており、その点で興味深い本である。

休戦 (岩波文庫)

休戦 (岩波文庫)

●私たちはもはや奴隷でもなく、庇護されてもいなかった。もう保護の下にはなかった。私たちに試練の時が来ていた。(P63)
●「だが戦争は終わっている」と私は反論した。私は終わったと思っていた・・・「いつも戦争だ」モルド・ナフムはこうして、記憶すべき答えを吐き出した。/誰でも、十戒を体に埋め込んで生まれてくるのではないことは周知の事実だ。・・・だから各人が都合よく解釈している、各人の道徳体系は、それまでの体験の総和と同一視され、それゆえ、それまでの人生を要約したものと見なされる。(P82)
●私がアウシュヴィッツで学んだことの中でも最も重要だったのは、「誰でもいい人間」になるのを常に避けることだった。無用と見える人間にはすべての道が閉ざされ、何か役目を果たしているものには、それがどんなにつまらないことであっても、あらゆる道が開けていた。(P102)
ポーランドの非常に長い夜に、たばこの煙と人いきれで重苦しくなった大部屋の空気は、無分別な夢によっても満たされていた。それが根を奪われて、流刑にされることの、直接の所産だった。現実を夢や空想が覆い尽くすのだ。すべてのものが過去や未来の夢を見た。それは隷属やあがない、ありえない天国、同じようにありえない神話的な敵の夢だった。まるで空気のようにどこにでも浸透する、邪悪で、緻密な、宇宙的な敵の夢だった。(P173)
●郷愁とは弱々しくやさしい苦しみで、それまで耐えてきた苦痛に比べると、つまり殴打、寒さ、飢え、恐怖、位階剥奪、病気といったものと比較すると、本質的に異なり、より内面的で、より人間的なのである。それは透明で、汚れのない苦痛なのだが、切迫感は非常に強い。一日のありとあらゆる時に侵入してきて、他の考えを許さず、人を逃避に追いやるからだ。(P243)