とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

困っている人

 大野更紗開沼博「フクシマの正義」で知った。開沼博もそうだが、最近の20代はすごいなあ。そう思いつつ、本書を読んでみることにした。読む前から、学生時代にビルマ難民運動に参加し、大学院へ進学直後に自己免疫疾患系の難病を発病した自らを描いた作品だということは知っていた。だがこんなにハチャメチャ系の弾けた闘病記とは思わなかった。
 「はじめに」に「この本は、いわゆる『闘病記』ではない」(P006)と書かれている。少なくとも悲しくも美しい「闘病記」ではない。難病の発症に始まり、病院行脚から入院、そして退院までの難病とともに生きる日々に感じたこと、考えたこと、行動したことなどが明るく赤裸々に綴られている。
 いや明るいだけではない。ウツ状態になって「死にたい」とつぶやくこともある。あまりの仕打ちに怒りに震えることもある。恋愛すら心のままに綴られている。難民を観察していたはずが、難病患者となり、自ら医療難民=「難」を抱える人になる。「困っている人」とは自分だけのことではなく、あまねく世界に存在する「難」民を指している。その客観的なようで思いっきり主観的な難民具合がとってもいい。
 そして社会福祉制度や医療制度の矛盾を体験談として訴え、病院や医師の実態も赤裸々に伝える。時に主治医さえ批判してしまう。MRI検査の場面などちょっと大袈裟すぎないかとは思うものの、これが80年代生まれ女子の本音なのだと思うと、面白くも興味深い。で、興味本位でブログを覗いたが、あまり書き込みはない。ポプラビーチの連載も半年近くも滞ったまま。ツイッターで発信しているのか、病状が悪いのか、生活につぶれたか、はたまたこういう性格か。
 気になる「女子」である。次は最新刊の「さらさらさん」でも読んでみようか。

困ってるひと

困ってるひと

●人間は、自分の主観のなかでしか、自分の感覚の世界でしか、生きられない。他人の痛みや苦しみを想像することはできる。けれども、病の痛みや苦しみは、その人だけのものだ。どれだけ愛していても、大切でも、近くても、かわってあげることは、できない。わたしの痛みは、苦痛は、わたししか引き受けられない。(P054)
●患者のために尽くせば尽くすほど、病院は赤字になりゆく。わたくしのような稀な難病女子などは、不経済きわまる存在なのだと、一年間の医療難民生活で悟ってしまった。まさしく、オアシスと主治医の先生方の「良心」「使命感」によってのみ、難病患者のためなら赤地なんぼじゃの医学的ガッツによってのみ、わたしの命は、ギリギリでつながれている。/もはや、「姥捨て」ならぬ、「女子捨て」である。このようなエクストリームな女子を「女子捨て」するなど、社会の多様性の喪失だとは思わないのだろうか、まったく。(P138)
●その国の「本質」というのは、弱者の姿にあらわれる。難病患者や病人にかぎった話ではない。あらゆる、弱い立場の姿に、あらわれる。/ビルマ女子は、タイやビルマで、路上や難民キャンプで、苦しむ人たちの姿を見てきた。貧困の姿もまざまざと見てきた。しかしそれは、いくら旅を続けようが「他人事」でしかなかったのかもしれない。/「これが、苦しむ、ってことか」/わたしははじめて日本の、自らの「本質」と向き合った。・・・わたしは、「難」の「観察者」ではなく、「難」の「当事者」となったのだ。(P154)
●難病も障害も、べつにその人は悪くない。選んでもいない。地球上の人類の中で、一定数の確率で誰かが負うことになる「難」のクジを、たまたまひいてしまっただけである。・・・医療難民、生存ギリギリの状態で、なりふりかまっている場合ではない。デッド・オア・アライブ。/お財布の中の運転免許証やTSUTAYAの会員証に、障害者手帳が加わっても、わたしはわたしである。(P179)
●「自立」って、果たしてどういう意味なのだろうか? この日本社会で、裸一貫「自立」している人間なんて、果たして、いるのか。・・・人間は「社会」のなかで、互いに依存しあって、生きているのではないのか。/人間には生まれながらの「人権」や「尊厳」があると日本国憲法に表記されているのではないか。そもそも、難病や障害があるからといって、なにゆえこのように声すら頃して苦しみ続けなければならないのだろうか。・・・「権利」はただの「建前」で、我慢し続けるのが「美しい」とはどういう理屈、というか理屈になっていないではないか。(P188)