とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場の憂国論

 久しぶりに内田樹を読んだ。ブログ等で発表したエッセイ等を集めたコンピレーション本である。最近、「内田樹の研究室」の更新頻度が減っている。それを反映してか、本書でも、「2011年から13年にかけてのエッセイを集めました」というものの、2013年に発表した記事はかなり少なくなっている。「野田首相に物申す」たぐいのエッセイが多い。
 それでももちろんどの文章も大変魅力的である。「第1章 脱グローバル宣言、あるいは国民国家擁護のために」はグローバリズムへの批判と愛国的国家論、「第2章 贈与経済への回帰」、「第3章 国を守るということ」はそれぞれ経済論と防衛問題、「第4章 国難の様相」はメディア論や情報論など、そして「第5章 次世代にパスを送る」は教育論。内容はこれまでもブログ等で読んできたではあるが、どれもそのとおりと思う。
 少し前の「小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句:うんざりするほど当たり前のこと」特定秘密保護法が成立したことを受けて、「私がうんざりしていたことの結果として法案が成立した」と書かれていた。小田嶋氏は「私が…」と書いているが、それは私にも、そして多くの国民に通じる。そして、うんざりした日々の代わりに、我々は変化と危険を欲している。
 本書でも下記に引用したように、現在の日本人は「『今の状態を変える』というのは即自的に『いいこと』」と思い、「社会制度が劇的に破綻することを鑑賞できる愉悦」を感じていると指摘している。我々は平和ボケの果てに、日々の生活にうんざりしてしまったのだろうか?
 あとがきに「アンサング・ヒーロー」、すなわち「人知れず世界を救い回している人々」のことが書かれている。村上春樹の雪かきをする小人たちと同じこと。毎日の暮らしにうんざりするのではなく、毎日を大切に積み重ねることで世界はずっと平穏に回っていく。そのことをもう一度思い返したい。

街場の憂国論 (犀の教室)

街場の憂国論 (犀の教室)

●人々は「もう少し待って、何が起きているのかを理解する」という仕事に時間を割くことを、ほとんど蛇蝎の如くに忌み嫌っている。待ったせいで、足踏みしたせいで、決断すべきときにしなかったせいで、こんなふうになったのだ。だから、「今の状態を変える」というのは、即自的に「いいこと」なのである。その変化は「急速で、大規模で、有無を言わせぬもの」であればあるほど「いいこと」だ、というのが現在の日本人の「気分」である。(P031)
●グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。・・・「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。/そのような人たちが今静かに「市場からの撤収」を開始している。・・・目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、それを市場で買うことはない。「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、その方がはるかに合理的である。(P103)
●歴史は事後的に回想すると、「それ以外にありえない一本道」をたどっているように見える。けれども、未来に向かうときには「どれが正しいかわからない」複数の選択肢の前に立ち尽くしている。そのときに適切な選択ができるためには、「なぜ、『あること』が起きて、それと違うことが起きなかったのか?」「『起きてもよかったのに、起きなかったこと』と『実際に起きたこと』の間にはどのような違いがあったのか?」というかたちで不断に想像力と知性のトレーニングをしておく必要がある。(P212)
●「ボスが手下に命令する」上意下達の「効率的な」組織作りを優先させると、私たちはいつのまにか「競争相手の能力を低下させる」ことに習熟するようになる。自分の能力を高めるのには手間隙がかかるけれど、競争相手の能力を下げるのは、それよりはるかに簡単だからである。ある意味で単純な算術なのだが、この「単純な算術」によって、私たちの国はこの20年間で、骨まで腐ってきたことを忘れてはならない。(P226)
●「劇的な破綻」、「劇的な制度崩壊」、「劇的な失敗」……そういうものが「緩慢な破綻」や「進行の遅い制度崩壊」や「弥縫策のせいでなかなか前景化しない失敗」よりも選好されている。まとめて、人間的諸活動のtheatricalization(劇化)と呼んでもいい。社会制度が破綻することによって自分自身が「いずれ」受けるはずの苦しみよりも、社会制度が劇的に破綻するのを「今」鑑賞できる愉悦の方が優先されている。(P268)