とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

愛と暴力の戦後とその後

 「東京プリズン」の作家・赤坂真理による、戦後を振り返る時代評論だ。「東京プリズン」では、天皇の戦争責任と日本人の心性がテーマだったが、引き続きそのことを考えている。
 「まえがき」が、高圧電線上で作業員が感電死した事件を実見した経験から始まる。高度経済成長期を象徴する出来事として。そして戦中から戦後を生きてきた母の沈黙を考える。日本とアメリカ。この二つの異文化の邂逅は、まるで性愛のようにねっとりした関係の中に溺れていった。もちろん日本は女として。そして化身・御供としての天皇の存在。
 日本語の「漢字」が中国の文字であることに驚き、憲法の「文字の意味」も知らずに使ってしまう日本語のあり方に疑問を抱く。日本人を知らず知らず精神的に縛っている日本語という存在。さらに「ドラえもん」のジャイアンと空き地を通じて高度成長期を思い、安保闘争の本当の敵、本当の意味を考え、オウム真理教を考察する。第5章「1980年の断絶」は、作家自身がアメリカ留学していた1980年に何かが変わった。日本にとって決定的な地殻変動があったのではないかと指摘する。
 さらに公園の利用を巡る地域委員会の経験を通じ、管理至上主義を糾弾する第7章。憲法改正(改革)を考える第8章も興味深い。そして東日本大震災を追想する終章。いずれも作家らしく、ただ論理的に考察を進めるのではなく、感情と身体性の底を探って、そこから湧き出してくる言葉を紡いでいく。わかりにくい表現でもあるが、直接心に響く。頭ではなく、心で読む。おかしいものはおかしいし、それにとどまらず、おかしいことには理由がある。
 それらは結局、日本が終戦をうまく処理できなかったこと、いや終戦だけでなく、明治維新、近代化そのものを未だうまく心の中で整理できていないことに起因するのではないか。我々は未だに江戸時代の心性で生きている。だがそれこそが民の心ではないか。その上に無理やり近世・西洋の顔を接ぎ木して、そういうものだと嘯いている。集団的擬勢。心理的要因。
 作家の心で見る日本は、鋭くその奥底まで見通す。男のちょっとした行動に本音を嗅ぎ取る女性のように。感じ取る感性はたぶん真実だ。そしてそんな真実の、包み隠さない、自然体の日本であること、そんな日本でありたいと思う。作家の感性は常に鋭い。特に女性のそれは。だから女性作家に注目する。

●人々は、被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、ひとつの象徴として、昭和天皇に見たのではないだろうか。/ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。/自分も、免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。/だから、黙った。/誰にも内面を覗かれないようにした。(P43)
●日本が欲し、アメリカ合衆国にお願いする。・・・他人の手で、ありもしない欲望を、自分の欲望として書かれること。まるで「共犯」めいた記述を。入れ子のような支配と被支配。ほとんど、男女関係のようだと思う。・・・二者にしかわかりがたい、占領期の甘美さも、ここにある。それこそ、性愛にたとえられるような。(P121)
●神を急ごしらえでつくって近代国家の中核とし、その国家をもって戦争にあたり、最終的に大敗して、戦後は神は神でないことになり、民は神を忘れたふりをした。そのことのつけは、当事者である私たちが考えるよりずっと大きく、未だに「総括」されていない。「総括」されていないものは、繰り返される。それが「連合赤軍」だったり「オウム」だったりしたのではないか。私たちは、私たちの「アンチ」というよりも「見ないことにしたもの」こそを何度も見るのではないか。原発事故だってそうなのではないか。(P179)
●大人とは、責任を引き受ける人のことだ。/「何かあったら責任は私が持つから、君らは遊べ」/と言える大人がいなかったら、子供は殺される。/そして、そう言えることが、大人であるということだ。(P222)
●なぜ正直に、/「私たちがつくったものではないが、美しく、私たちの精神的支えとなってきた」/と言えないのだろうか。日本人がそう世界に向けて言えれば、それは日本人の度量を示すことにもなる。うまく敗けることは、ただ勝つよりおそらくむずかしい。(P266)