とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

オシム 終わりなき闘い

 昨年、ブラジルW杯前に、ボスニア・ヘルツェゴビナが初出場するまでを追ったドキュメンタリーがNHK-BS1で放送された。民族ごとに3人の会長を持つボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会を一人の会長の元に一元化すべく、オシムが正常化委員会の委員長に就任した。憎み合い権利を主張し合う3民族の極右政治家の間を回り、会長の一元化について合意を得ていく。オシムの尽力の結果、FIFAにW杯出場権を認められたボスニア・ヘルツェゴビナは順調に予選を勝ち上がり、最終戦でリトアニアに勝利してW杯出場を決めた。
 TVでは予選突破に涙するオシムを捉えて放送を終えるが、本書はTVで放送されたオシムの様子だけでなく、極右政治家への後付け取材、ジェコやイビシェビッチへのインタビュー、W杯開催中のボスニアにおけるムスリム人、セルビア人クロアチア人の動向など、W杯出場を中心にボスニア・ヘルツェゴビナの複雑な国情を克明に描き出していく。
 イビシェビッチが「サッカーは『特別な言語』」と言う。サッカーのチカラを感じるが、一方で民族間の敵対心を煽ることで政治家としての権力を把持し合う政治の現実も描き出す。こうした政治に翻弄された人々、今も翻弄される人生。民族融和の記憶のない若い世代ほど偏狭なナショナリストになっているという悲しい現実の前に、未来は全く楽観できない。
 ボスニアの厳然とした現実を見つつ、木村元彦の眼は日本の在特会に集まる排外主義者を痛烈に批判する。日本でも昨年、埼玉スタジアムに「Japanese Only」の横断幕が掲げられた。レイシズムナショナリズムが何を生むのか。その冷徹な現実がまさに今ボスニアにあるというのに、日本のメディアはそれをほとんど伝えることはない。木村元彦のドキュメンタリーはいつもボスニアの現実を通して日本の行く末を問うている。オシムストイコビッチらの悲しくも優秀な教師を通じて。

オシム 終わりなき闘い

オシム 終わりなき闘い

●戦争を体験した年配の世代はそれでも民族融和の時代の記憶が残っていて他民族に対して寛容さがあるが、若い世代のほうは幼いころから接点がなくむしろ偏狭なナショナリストになっている。これではサッカー界もなかなかひとつになれない。ボスニアの未来への深刻さはここにもあるのだ。(P36)
●正常化委員会について、それは極めて楽観的でポジティブな試みだったと思う。そのお蔭でボスニアがW杯に出場できることになったのだから。しかし問題は、セルビア人クロアチア人はそれを支えていないということだ。正常化委員会の『正常』とは……、正常であることとは何なのかが問題だ。ムスリムは統一されたボスニアを望んでいる。クロアチア人は独自のエンティティを持って自治権を持ちたい。セルビア人はそもそもボスニアに入りたくなかった。三者三様であるのに『正常化』とは何なのか。(P104)
●選ばれた選手のほとんどが難民出身で、二重国籍者は実に7か国から集まってきている。・・・その上、出自に関してはムスリムクロアチアセルビアの民族籍が存在する。/背景は複雑極まり、まさに紛争で地域も人のつながりも引き裂かれてしまった国である。それでも彼らがひとつの目的に結集して和気藹々と語り合っているのを眼前で見ると、国籍も民族も混在しながらこの代表こそが世界で最も融和しているチームではないかと素直に思うのだ。(P161)
●私は世界中を見て回りました。いろんな文化、言語を知りました。そして私は行く先々でサッカーをすることで、あることがわかってきたのです。サッカーというのは『特殊な言語』であると。特別なパワーを持っています。私たちサッカー選手は誰が何民族あるいは何宗教なのか、そんなことをいちいち考えないで試合に集中していく(P168)
●「在日特権」などというありもしない架空の権利を捏造し流布して、自分たちこそ被害者だと主張し差別を扇動する。狂信的な民族主義者が求心力を得るために必ず採用するそのメソッドはユーゴでいつか見た光景だ。いや、今のボスニアの人々にはリアルに殺し合いをさせられながら憎しみを抑えて何とか共存しようという意志がある。切迫した痛みだ。対して日本の排外主義者は権力に守られてヘラヘラとただ差別を娯楽のように楽しみ・・・「愛国者」の名を騙るただの下衆なチンピラである。(P198)