とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ラオスにいったい何があるというんですか?

 「あとがき」にこの本の成り立ちが書かれている。本書に収められた紀行文の多くは昔住んでいたり、行ったことのある場所を再び訪れる旅行の記録だ。再訪となるとどうしても「昔はこうだった」といった回顧録的な文章が多くを占めてしまう。それはそれで時の流れを感じるし、まったく変わってしまったこと、変わらないことがわかるのは面白いが、初めての感動とは違う。やはり読んで楽しいのは、初めて訪れた場所での初めての体験だ。だから、アイスランドラオスへの訪問記が面白い。

 フィンランドを訪ねる紀行文もある。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に出てくるフィンランドのシーンはこの旅行の後に書かれたものかと思ったら、追記で「小説を書き終えた後に行った」と書かれている。しかし小説で書かれた情景や雰囲気がそのまま現地で見られるというのはすごい。逆に小説に書いたからこそそうした情景が強く記憶に残ったということか。

 「もっと多くの旅行をしてきたけれど、旅行記はその直後に書かないと、なかなか生き生きとは書けない。その時にもっとしっかりと書き留めておけばよかった。」という趣旨のことを書いている。村上春樹でもそうなんだ。小説で使われるシーンというのは結局、旅行などの体験が沈静化し、咀嚼されたうえで、想像の世界に浮かび上がってくるものなんだろう。だから小説の描写と実際のあり方が違うということを言ってはいけない。

 小説と旅行記は別物。でもやはり村上春樹のエッセイは楽しい。ゆったりと過ぎる極上の時間を味わわせてくれる。そんな旅行がしてみたいがダメなんだよな。人それぞれ性分があって、私の場合どうしても決まった時間内で予定をこなすような旅行となってしまう。反省しなくては・・・。

 

 

○僕は思うのだけれど、たくさんの水を日常的に目にするというのは、人間にとってあるいは大事な意味を持つ行為なのではないだろうか。まあ「人間にとって」というのはいささかオーヴァーかもしれないが、でも少なくとも僕にとってはかなり大事なことであるような気がする。僕はしばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かをちょっとずつ失い続けているような気持ちになってくる。(P13)

○子供たちはある朝目が覚めると、自分が親に見放されていることに気づく。・・・切羽詰って巣穴から出てきて、本能の導くままに羽を動かして、海に出て行って、自分で餌をとることになる。うまく餌がとれなかった子パフィンはそのまま死んでいく。すごく単純な世界である。・・・しかし昨日まで身を粉にしてせっせと子供にご飯を運んできた親パフィンたちが、ある日突然「もうあとは知らんけんね」とぱっと態度を切り替えて、どっかへ行ってしまうという、クリアな人生観には刮目すべきものがあるような気がする。(P38)

メコン川の持つ深く神秘的な、そして薄暗く寡黙なたたずまいは、湿った薄いヴェールのように、僕らの上に終始垂れ込めている。メコン川は、まるでひとつの巨大な集合的無意識みたいに、土地をえぐり、ところどころで仲間を増やしながら、大地を太く貫いている。そして深い濁りの中に自らを隠している。川を巡る風景には、豊かな自然の恵みの感触と共に、大地への畏れがもたらす緊張が同居している。・・・人々は文字通りメコン川に沿って生活を営み、その意識や心は、川の途切れない流れと共生しているようだ。おおむね諦観的に、しかしあるときにはタフに。(P158)

○物語を持たない宗教は存在しない。そしてそれは(そもそもは)目的や、仲介者の「解釈」を必要としない純粋な物語であるべきなのだ。なぜなら宗教というのは、規範や思惟の源泉であると同時に、いやそれ以前に、物語の(言い換えれば流動するイメージの)共有行為として自生的に存在したはずのものなのだから。つまりそれが自然に、無条件に人々に共有されるということが、魂のためになにより大事なのだから。(P170)