とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

三丸藩公記(その1)

 徳川期の後期に入ろうという時代。尾張藩の近くに三丸藩という小さな小藩があった。藩主は3年前から徳川家譜代の悠有藩から送り込まれた丘本殿。三丸藩は尾張藩支藩である粕谷藩のまた支藩。悠有藩、尾張藩、そして粕谷藩の支援を受けて、小さな城下町を築営した。小さいながら一国一城の藩として、それなりの賑わいを見せている。尾張藩の隣国、三河国で育ち、三丸藩内に居を構えて尾張藩で奉公を重ねてきた私だったが、還暦を迎え、尾張藩主・大無理殿から隠居を申し渡され、三丸藩で最後の奉公を行うこととなった(居住地とか、勤務先とか、江戸時代にこんなことはないかもしれないけど、まあ、そういうことです)。

 夏前より、三丸藩に家老として勤め始めたのだが、びっくりしたのは三丸藩主・丘本殿の奇行。突如、女中殿を集め、城下・城内での礼遇ができていないと接遇規範の作成を命じた。驚いた女中殿は、ある者は「私の対応が悪うございました」と泣き出し、ある者は「殿方こそが反省すべきでは」と主張し、最後は女中頭の美和殿に「接遇規範を作れ」と命を下した。

 しかし丘本殿の先々代よりも古くから女中として勤めてきた美和殿は腹が座っている。「どうするんですか」と尋ねる私に、「そのうち殿が『これが接遇規範の案じゃ』と示してよこすから、それを写すまで」と言い、実際そのとおりになった。その後の様子を見ていると、どうやら殿は、若女中の矢間殿、山咲殿が振り向いてくれぬことに腹を立て、「接遇規範に倣って、わしをもてなせ」と言いたかったようだ。

 それから10日程後のこと、朝起きると「明日癙という有害物質が使用された城に気を付けよ」と触れて歩く瓦版屋を目にした。それで、殿に「三丸城では使用されていないことは調査済みゆえ、そのことを札所に貼り出したらどうか」と進言したところ、「庶民の無用な不安を煽る」と却下された。ちなみに後日、「情報の非対称はいけない。どんどん情報公開せよ」と家来に訓示されたが、この時のことはもう覚えてはおらぬらしい。

 ちなみに10日に一度、城内の家来を集めて、朝礼の会が開かれる。この場では今後10日ほどの予定などが報告されるのだが、最後は必ず藩主の訓示で終わる。これがなかなか酷い。家来の行動を田舎侍と罵倒し、悠有藩でいかに自分が活躍してきたかと自慢話を延々と続ける。ちなみに悠有藩の知人などに聞くと、悠有藩にいた時も独善的な行動を繰り返し、部下は辟易していたと言う。悠有藩にすれば、いい厄介払いができたと思っていることだろう。

 

 さて、突如始まった三文時代小説「三丸藩公記」。今後どれだけ続くかわからぬが、話題のない時などに埋め草で連載していくつもり。以後、ぜひお付き合いをお願いいたしまする。