「四十にして惑わず」というが、50才を過ぎてますます惑うことが多くなった。ましてや「五十にして天命を知る」なんてことはあり得ない。もっともこれは孔子以外は同感だろうけど。 「惑う」というのは、複数の選択肢の間で決断ができないことのように見える…
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