とんま天狗は雲の上

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法令の求める水準とコンプライアンスと

 今読んでいる「都市の記憶を失う前に」に次のような記述があった。

●自己責任による安全を求める欧米諸国では、法令の求める水準は、それほど高くない。このため、法令を遵守することは比較的に容易である。・・・つまり、欧米諸国におけるコンプライアンスは、単に法令を遵守することにはそれほど意味はなく、法令遵守は当たり前で、法令以上にどのような備えをやっているのかが重要な意味をもっているのである。・・・このような状況だから、コンプライアンスという考え方を、法令の求める水準の高い日本に持ち込むこと自体に無理があるのだ。建物の安全については、日本では、法令を満たすことに相当の努力が必要で、それ以上のことをするゆとりはないといったところが実情だろう。(P106)

 本書は、日本における建築保存を困難にしている要因や対策について説明する建築専門書だが、保存建築物の防災・安全対策に関する法令に柔軟性がないという文脈の中で、保存建築物に限らず建築物全般に対する法規制が災害や事故が起きるたびに詳細・厳格になるという批判に続いて書かれていた記述だ。
 その前には、「日本では災害や事故が起きると、マスコミや国民が法令の不備を批判し、それに応える形で、法令が求める水準がますます高くなり、手続きが煩瑣になり、その弊害として、安全確保に対する自己責任の意識が希薄になっていく」という趣旨の記述もある。
 まさにそのとおりで、行政や法令が対応すればするほど、国民の意識レベルは下がり、ますます国家依存になっていく。全てを面倒見れない行政は、法令だけ守っていれば責任を免れるという形だけのコンプライアンスに陥る。結果、ますます硬直的でいざというときに頼りにならない社会になっていく。
 自己責任という言葉は、政府の自己保護のために国民に浴びせかけて以来、すっかり責任と無責任の境を示す言葉に成り果ててしまった感があるが、本当は誰でも自分のことは自分が責任を持つしかない。社会に頼るのは最低限という意識の上で、自己責任やコンプライアンスという言葉を噛み締めると、もう少しいきいきと生きやすい社会になれるような気がする。