とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

プリンシプルのない日本

 白洲次郎のブームは一段落したのだろうか。先日、友人と話していて、白洲正子の古寺100選に載っている近江の寺に行ったという。また、調布市の計画策定に関わり、白洲邸の扱いが議論されたという。少し読んでみようかという気になった。
 私が解説するまでもなく、本書は戦後1954年から10年間ほど、文藝春秋他に掲載された文章を集めたものである。前後に、今 日出海の人物紹介と、今 日出海・河上徹太郎との鼎談が掲載されている。
 GHQとの折衝やサンフランシスコ講和条約にも関わり、吉田茂鳩山一郎池田勇人等との親交と信任も厚かった人物の直言ということで、興味深い事実も書き出され興味深い。それにしても文中、ずっと怒っている。怒り続けている。
 現在でいえば、やたらと怒ることを売りにする政治評論家がいるけれど、彼等はしょせん日和見であり、強い者になびいているだけだが、白洲次郎は違う。憲法改正を言うと思えば宮内庁を批判し、経済界の陳情を批難し、学生運動に同情を寄せる。そこにはケンブリッジ大で学び育った人間のプリンシプルが通っている。
 それにしても、「国民の選択を重視しよ。マスコミに躍らされるな」という直言は政権交代なった今においてなお、正論として生きて聞こえる。日本はプリンシプルのないまま、今に至ってしまったのだ。だからこそ今、白洲次郎の言う真の「革命」が求められていると言える。

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

●彼等(政治家)にとってイデオロギーというものは単なる道具なのだ・・・。だからはっきりいえば、彼等には思想がないのだ。その結果例えば論争が展開された場合に、・・・いつでも感情問題になって、喧嘩になってしまう。(P32)
●弱い奴が強い奴に抑え付けられるのは世の常で致し方なしとあきらめもするが、言うこと丈けは正しいことを堂々と言って欲しい。その後で言い分が通らなくても何をか言わんやだ。その時のくやしさも又忘れぬがよい。力が足らんからなのだ。力をつくって今に見ていろという気魄を皆で持とうではないか。(P63)
GHQの行き方というか態度というか、そのなかに終始一貫してあったことは心理的には色々の施策の対象が実は日本及び日本人でなくて、ワシントン政府及び米本国であった。というと実に変に聞こえるが、私の言わんとする処のものは、如何にすれば本国によく思われるかということに汲々としていた様に思われる。(P166)
●原文には天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく。(P240)
●政治家が一番恐ろしいものは国民の判決です。馬鹿な政治をやった政府でこの判決の制裁を受けなかったためしはありません。このごろのマスコミの論調をそのまま輿論だと思いめされるな。国民はそんなに軽率でもないし一方的でもありません。(P247)