とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

日本辺境論

 この本のことを内田先生は自身のブログで絶賛していた。先に読んだクライン孝子の本に心が鬱屈してしまったので、広々とした気分になりたいこともあって、本書を書店で見つけるとすぐに購入し、読み始めた。
 予想どおり、内田節全開の爽快な日本文化論である。
 「はじめに」で、「本書のコンテンツにはあまり新味が」なく、丸山眞男・澤庵禅師・養老孟司からの受け売りであると宣言している。加えて、大風呂敷で体系的でないと最初に断りを入れている。内田樹独特のいつもの逃げだが、確かにそうかもしれないが、こうした考え方や認識を繰り返し確認することは、頭と心の整理に非常によく効く。「お掃除」仕事と言っているが、掃除された頭と心はその後、非常に気持ちいい。読んでよかった。それが最大の感想にして効用である。
 日本人は中華思想における辺境の思想に囚われた辺境人であり、辺境人としての能力を磨きに磨いて現在の状況を手にしている。それは世界的にも特異なことであり、であればこそこの特長を生かして「とことん辺境で行こう」というのが第1章の主旨である。
 第2章の辺境人の「学び」は、「虎の威を借る狐」の例えがわかりやすい。第3章「機」の思想は、武道論の中でこれまでも書かれてきた「敵と一心同体となる」「敵を倒すのではなく作らない」武道の極意について述べ、第4章では日本語論を語っている。
 表意文字表音文字が一体となり脳の複数部位を同時に活性化させて理解するという日本語の特徴の指摘は、面白い。私自身、最近、表音文字の認識機能が衰え、バランスが悪くなっていると感じるのは年のせいだろうか。目で読み、その後で音で読む、その時間差が理解を妨げ、うまく理解することができない。辺境人能力の衰えかもしれない。
 このように本書の内容は、日本文化論・辺境人論を逸脱して、多様な興味と知識に解き放たれ、読者は(筆者も)本書をベースに様々に思いを飛翔させ得る。それも内田本が読んで楽しい一因ではないかと思う。いや、読んでよかった。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

●日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。・・・より正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある。(P23)
●ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値系」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は・・・「辺境人」と呼ぼうと思います。(P44)
●「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。・・・「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」・・・狭隘で資源に乏しいこの極東の島国が大国強国に伍して生き延びるためには、「学ぶ」力を最大化する以外になかった。「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。・・・ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。(P197)
●日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる・・・点にあります。そして、私はこれが日本語という言葉の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。(P220)