とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

社会とは何か

●所得格差や文化的格差によって社会が分断している現実を、イギリスの社会学者ジョック・ヤングは「排除型社会」と呼んでいる。かれによれば、戦後の高度成長期のあいだ、社会は勤労を通じて生活の向上と安定の確保をめざすという共通の価値によって人びとを統合する「包摂型社会」であった。ところが、1973年のオイルショック以降の経済危機と、グローバル化による国際競争の激化の結果、社会は分断され、諸個人は生き残りと私的な夢の実現のためにばらばらに戦う排除と選別の社会になったというのである。/そんな社会が住みよい社会だろうか。社会的弱者であれ、文化的に異質な存在であれ、さまざまな人間が共存できる包摂型の社会を実現することが必要なのではないだろうか。(はじめに3P)

 「はじめに」の一節である。これだけ読むと、包摂型社会を実現するための提案や考察が記されているかと期待したが、筆者の関心はひとえにタイトルどおり「社会とは何か」に向かう。
 第1章から第3章までは、社会が発明され、発見され、社会を対象とした科学が成立していく過程を俯瞰する。ホッブズスピノザ、ルソー。ディドロとダランベールの百科全書、ケネー、アダムスミスの経済学的社会の発見、フランス革命の影響。産業革命による社会思想家の登場。サン・シモン、フーリエプルードン、コント、ル・プレイ。そしてデュルケームに至り、社会を研究対象にする学問である社会学が生まれてくる。
 こうした中で、個人の周囲の環境から国家へとつながる存在として、限りなく国家と同義な言葉として認識されてくる。筆者はそこでアメリカの政治的学者ジョン・ロールズが使う「基本善」という概念を引き出してくる。また、ルソーの「一般意志」を考え合わせ、社会的連帯の場である「公共圏」を構想する。
 第4章、第5章は、前者ではフランス等の文化的排除を、後者では水俣病における「サークル村」の活動を例証に、社会と共同体の関係を考察し、「多様性複数性からなる社会」を前提に「多にして一であるものとしての社会」を構想する。
 それはそうなのだが、そのための方策や方向が与えられているわけではない。もちろん制度の問題でなく、社会をそのようなものとして構想すること、その構想力が社会をそのようなものに作り上げていくということかもしれないが、正直、はぐらかされたような感じがしないでもない。
 社会とは・・・複雑にして一様でなく、しかし一様になろうとして常にぎくしゃくし混沌としている、そういう存在かもしれない。社会をそんなアノニマスなものとして再認識した、というレベルの理解でいいのだろうか。何か時間の無駄だったような気がする。筆者にも申し訳ない。

社会とは何か―システムからプロセスへ (中公新書)

社会とは何か―システムからプロセスへ (中公新書)

●社会は管理や調整の対象とされる一方で、それに抗って共通善と認定するものを共同で実現するための空間としてもとらえられた。これ以降、社会は、上からと下からのふたつのベクトルが交錯する空間として認識されていくのである。(P70)
●社会問題に対し、・・・社会主義者たちは実現すべき新しい社会の理念を提供することで問題の解決につとめたのに対し、社会学者たちは社会の構成原理を理解し、既存の制度の修正や規範意識の強化を通じて問題の解決をめざそうとした。(P114)
●社会とは、すでに固定されたものとして存在するわけではなく、人びとの意思と行為によって変えることのできる、ある種の厚みをもった空間として考えられる。それを良きものにしていくには、社会として何を実現していくかの最低限度の善の定義が共有されていることが必要であろう。・・・成員が共通の善の定義に参加し、共同でその善の実現に向かっていると意識するとき、はじめてかれらのあいだに横のつながりが、社会的連帯が実現されるのではないか。(P156)