とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

フットボールの犬

●かつて、世界情勢に問題意識を持つジャーナリストやフォトグラファーは、紛争地帯の最前線こそが「現場」であると信じて疑わなかった。だが今なら、フットボールの「現場」も加えてよいのではないか。いやむしろ現代のフットボール界こそが、世界の矛盾と相克、さらには人間の業や性といったものが如実に発露する「現場」であると心得る。(P298)

 「あとがき」に書かれたこの言葉こそ、筆者自身の自負と心からの思いを表現している。そしてその言葉を書かせる筆者のすべての経験がこの本に詰まっている。同じく「あとがき」には次のような独白が書かれている。

●もしも、あそこでベオグラードに行く決断をしていたなら、おそらく私は「フットボール好きの戦場フォトグラファー」を目指していた可能性が高い。(P298)

 なんと、第1章に書かれたガトウィック空港の選択が宇都宮徹壱のその後の運命を決めていた。そしてもう一つの選択がされていたら、普段は注目されないマイナーな世界のフットボールフットボールを巡る生活や人生を紹介する著書の数々を読むことができなかった。そう思うと本当によかった。
 本書は「季刊サッカー批評」を始め、いくつかの雑誌やインターネット媒体に掲載されたヨーロッパ諸国のサッカーと日常を描いたフォトエッセイを集めたものである。巡る国と地域は16ヶ国。中には旧東ドイツデンマーク領のフェロー諸島、またイタリアのシチリアなども含まれる。
 それらの地域で筆者の目に留まるのは常に、サッカーを日常にして生きる人々の姿である。「日常」と簡単に呼ばれるが、そこにはテロとともに生きる日常があり、戦火の下に生きる日常があり、憎しみがあり、喜びがあり、悲しみがあり、幸せがある。自由があり、政治があり、マフィアがあり、熱狂がある。宗教があり、人種差別があり、そして人々を翻弄する時代と人生がある。まるでサッカーのように。わずか1点で一喜一憂するサッカーは人生に通じる。まさに冒頭の文章を筆者に書かせる所以である。
 やはりこうした本はいいなあ。宇都宮氏の旧作やまだ読んでいない著作を読み返してみたくなってきた。筆者のせいで私はサッカーが好きになり、サッカー本を読むのが好きになった。そして筆者とともにそのことを喜び、誇りたいと思う。サッカーには人生が詰まっている、と心底思う。

フットボールの犬―欧羅巴1999‐2009

フットボールの犬―欧羅巴1999‐2009

●スタジアムの歴史に比べれば、人間ひとりの歴史はあまりにも短く、儚い。選手も、そしてサポーターたちも、有名・無名にかかわらず、等しく年齢を重ね、やがて土に還っていく。しかし、それでも彼らの帰属するクラブへの愛情は、着実に次の世代へと受け継がれながら、スタジアムと共に生き続ける。スコットランドのスタジアムに横溢する、死者を巡る物語。それは、人々の営為の中で生成され、そして伝承されていく、必然の物語である。(P23)
アイルランドの人々も、ユーゴスラヴィアの人々も、そして余所者である日本人の私をも幸福にしてしまうフットボールフットボールが勝利するゲームがあってもいい。そんな想いで胸がいっぱいになった、ダブリンの一夜であった。8P49)
●「いいかい、若いの。わしの現役時代は一度だって、クラブから給料を貰ったことがなかったんだ。ただ、住む場所と食料が、家族に与えられただけだった。それでも皆、フットボールを心から愛していたし、国を代表する誇りもあった。そして何といっても、自由だったよ。ピッチの中でも、外でもね。ところが、今はどうだい。馬鹿みたいに金は貰えるようになったが、何かと言うとディシプリンディシプリンだ。あれじゃあ、まるでロボットと同じで、実に気の毒だね。わしはあんまり、いい暮らしができなかったが、それでも、自由なフットボーラーでいられたことは、何よりも幸せだったよ。(P81)
フェロー諸島では、・・・ボールを蹴りたい子供たちは自然にグンダダルーに集まってくる。もちろん、グラウンドはクラブの所有物ではあるが、実際には代表レベルのプレーヤーも、未来の代表を夢見る子供たちも、分け隔てなく使用することができる。・・・限られた空間の中で、大人も子供も等しくフットボールに興じているフェロー諸島の光景。それは、実はJリーグの「百年構想」をはるかに先取りした、もうひとつのフットボールのあり方であったのかもしれない。(P140)
●現地で暮らす人々からしてみれば、いくら「テロの危険があるから」といっても、フットボールを止めるわけにはいかないのである。・・・選手や関係者やサポーターにとって、まさにフットボールが「生活そのもの」であるのも事実。そうしたせめぎ合いの中で、人々は日常を生きているのである。(P165)