とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場のメディア論

 「街場のメディア論」というワードで検索して、このブログに迷い込んだアクセスが多くあった。それだけ多くの人から期待されていたのだろう。本書は実はある程度前に読了したが、サッカー系のエントリーを優先したのでアップが遅くなった。感想を期待していた人(は、ほとんどいないと思うが)がいたとすれば、すいません。
 内田本の魅力は、読み終わった後の精神安定効果にあるので、内容自体はブログや他の書籍でも読んでいたことがほとんど。でも「メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調である。」(P5)と嘆いているとおり、現在メディアは巷間言われるように危機的な状況にあると思われる。本書は、「なぜメディアがこれほどまで危機的な状況になったのか」。その理由を筆者ならではの事実の裏側を見通す目で、根源的な理由を明らかにする。
 併せて、電子書籍をめぐり、著作権の問題、贈与と価値のあり方から、これからの危機的な時代を生き延びるための生き方について言及し、本書を閉じる。最終第8講は「わけのわからない未来へ」というタイトルであり、「贈り物を察知する人が生き残る」「メディアとは『ありがとう』という言葉」「生き延びられるものは生き延びよ」という小見出しで終わる。
 特に前半、メディアは大衆に迎合し、被害者を無見識に後押しすることで、被害者面を振りかざすことが正義という社会のクレイマー化を促し、市場原理主義を振りかざして医療制度や教育制度を壊し、みずからもメディア言論の有用性を壊して自壊していると指摘する部分は痛烈で痛快だ。
 後半は、本は読者が価値を認めて初めて価値を持つ、という当たり前の事実を指摘して、市場原理から電子書籍に一喜一憂する愚を諭し、著作権保護論を罵倒して、「わけのわからにもの」に贈与価値を感じる生き方こそが、これからの危機的な時代の生き方だと説く。メディア論が人生論に変わる。
 私もそういう生き方をしたいと、特に最近、常々そう思い、実践するようにしているが、内田先生にこう書いてもらうとさらに心強い。ただし、まだまだ、まだまだ、まだまだ・・・・修行が足りない。ま、その時は生き延びられないだけのこと。誰しも一度は死ぬわけだから、それが自分の人生と引き受けなければならない。そう思ってはいるのだが・・・。
 こう書く私のブログも、ミドルメディアの一つだろうか。少しは社会に有用であればいいのだが。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

●大人というのは、最低限の条件として「世の中の仕組みがわかっている」ことを要求されます。ここでいう「世の中の仕組み」というのは、市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されているという、ごくごく当たり前のことです。現に身銭を切って、額に汗して支えている人たちがいるからこそ、そこにある。/でも、それを忘れて、「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。・・・それが「クレイマー」になった。(P71)
●「なぜ、自分は判断を誤ったのか」を簡潔かつロジカルに言える知性がもっとも良質な知性だと僕は思っています。・・・けれども、この知性観を日本のメディアは採用していません。メディアにかかわる人の過半は、自分が仮に間違っていた場合でも、それを認めずに言い抜けることをむしろ知的なふるまいだと思っている。(P84)
●メディアが急速に力を失っている理由は、決して巷間伝えられているように、インターネットに取って代わられたからだけではないと僕は思います。そうではなくて、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平坦な事実に人々が気づいてしまった。そういうことではないかと思うのです。(P96)
●「ものそれ自体に価値が内在するわけではなく、それを自分宛ての贈り物だと思いなした人が価値を創造する」・・・著作権についての議論には、その点についての倒錯があるように僕には思われるのです。「著作物それ自体に価値が内在している」というのが著作権保護論者たちの採用している根本命題です。読者がいようといまいとそれには価値がある。・・・このようなロジックを掲げる人は、「贈与を受けた」と名乗る人の出現によってはじめて価値は生成するという根源的事実を見落としています。(P184)
●「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。・・・同じことは人間同士の関係でももちろん起きます。自分にとって疎遠と思われる人、理解も共感も絶した人を、やがて自分に豊かなものをもたらすものと先駆的に直感して、その人のさしあたり「わけのわからない」ふるまいを、自分宛ての贈り物だと思いなして、「ありがとう」と告げること。人間的コミュニケーションはその言葉からしか立ち上がらない。(P204)
●どのような事態も、それを「贈り物」だと考える人間の前では驚異的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思いなす人間の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価値」を引き出そうとする人間的努力を起動させることができるからです。今遭遇している前代未聞の事態を、「自分宛ての贈り物」だと思いなして、にこやかに、かつあふれるほどの好奇心を以てそれを迎え入れることのできる人間だけが、危機を生き延びることができる。(P207)