とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

困難な成熟

 昨年の9月に発行されて以来、読みたい、読みたいと思い、でも弱小出版社ゆえか、丸善系のネット通販では扱われず、しばらく待って、ようやく先日読み終えた。そこまで読みたい気にさせた要因はやはりタイトルにある。「まえがき」でそのことが語られるが、「成熟は困難だ」ではなく「困難な成熟」って、やっぱりどこかそそられるものがある。どうしてだろう。人間の成熟に関して、きっと内田樹らしい見解が語られているのだろうと期待した。

 それで、まあかなり期待に応えてくれる内容だったと思う。本書は、出版社「夜間飛行」が発行するメールマガジンに掲載されていたコラムを集めたものだが、編集者の質問に対して内田氏が回答をするという形式をとっている。各節の冒頭に、ゴチック体で質問が書かれているのだが、それが直裁的で歯切れがいい。その内容も簡潔ながら深い。

 1問目の問いは「責任を取るとはどういうことか」。そして「正義とは」「社会的ルールとは」「公正・公平とは」。さらに第2章に移って、「働くとはどういうことか」「組織とは」「最適な組織のサイズ」「執着と矜持」「運と努力」。第3章「与えるということ」、第4章「伝えるということ」、第5章「この国で生きるということ」は、これまでも内田氏が書いてきた贈与論や教育論、国家論の再掲という感じだが、いずれにせよ、直球の質問に対して、未練気なく即答の形で答えていく。

 「目に映るすべてのことはメッセージ」って、突然ユーミンの歌詞が引用されるのも、たまたまクルマに乗っていたら流れてきたって、本当だろうな。そしてそこから強引に贈与論に持っていってしまう力技。さすがだな。

 ということで待ち焦がれていただけのことはある、けっこう楽しい本です。けっして難しすぎることはない。でもやっぱり強引な気はするな。それが内田節ということだし、それが好きで内田樹を読み続けているんだけど。

 

困難な成熟

困難な成熟

 

 

○裁きというのは本質的に公的・非個人的なものです。そうでなければならない。そして、赦しというのは本質的に私的・個人的なものです。そうでなければならない。/正義の執行は峻厳になされます。でも、正義が正義でありすぎることをたわめるように、正義の執行がともなう傷を手当てするために、私的な介入が果たされる。・・・最終的な正義も最終的な慈愛も人間たちの住むこの社会を人間的なものにすることはできません。正義が行われ、その烈しさを赦しがたわめるというエンドレスの相互性のうちにのみ「開かれた正義」は存在するのです。(P38)

○ボールは「生きているか」「死んでいるか」いずれかの状態にある。「生きた」ボールが最後にどこで「死ぬ」かによって、ボールの「意味」が決定される。そして、ゲームのフィールドは「清らか」であるか「穢れている」かに分かたれる。/こう書き出すと、ボールゲームというのが、実は人間たちの住む世界にある種のデジタルな境界線を引いて、そこにコスモロジカルな秩序を立ち上げるための神話的な装置だということがわかります。子どもたちはこの遊技を通じて、世界は「敵と見方」「戦争と平和」「生と死」「清浄と汚濁」といった二項対立を積み重ねて構造化されているという基本的な世界認識の「仕方」を学びます。(P56)

○親たちというのは個人であると同時にある種の「集合的機能」です。その判断や言動は、個人的な起源を持つものであると同時に集団的な起源を持ってもいる。親たちの口を通じて「集団的な叡智」や「長く継承された口伝」のようなものが語る。そういうことがあります。親たちの口を通じて「他者が語り」、彼らの行動を通じて「他者が行動する」ということを、子どもたちはたぶん「サンタさん=親」を発見したときに、同時に発見する。そういうことではないでしょうか。(P224)

○「愛する」という行為は理解と共感の上にではなく、「理解も共感もできないもの」に対する寛容と、そのような他者に対する想像力の行使の上に基礎づけられたほうが、持続する。そういうことです。/結婚でも、会社でも、実は同じなんです。(P360)