とんま天狗は雲の上

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革命とナショナリズム−シリーズ中国近現代史(3)

孫文死後の中国史は、「遺嘱」の課題を実現するのは、国民党なのか共産党なのかをめぐって展開したということができる。その意味では、1925年から20年間にわたって、政治面で協力と対立を繰り広げつつ、中国を変えていったこの二政党こそが、革命とナショナリズムの時代たる本書の主人公である。

 「はじめに」の最後の文章である。本書のタイトルも「革命とナショナリズム」という。孫文が亡くなった1925年以降、中国の政治状況は、国民党と共産党の相克により進んでいく。孫文が目指した国民革命は、中国の自由平等、民衆の喚起、世界との連合を謳ったが、それをいかに実現していくかは残された者によってまちまちだった。特に「連ソ容共」政策は中国を大きく二分する元となった。
 共産党も当時はまだ非常に貧弱だった。蒋介石が率いる国民党政権は北伐を進める一方で共産党を弾圧・攻撃し、毛沢東らは井崗山の根拠地に立てこもっていく。その後、蒋介石の囲剿により長征を余儀なくされ、貴州省遵義を経て陝西省呉起鎮に至る。その間、共産党内部においても留ソ派などが党政を争っており、ソ連の国際的な立場に依拠し、中国の現実を見ないコミンテルンの決定に左右され続ける。
 一方、日本は盧溝橋事件を契機として、一気に中国に攻め込んでくる。国民党政権は上海、南京と陥落し、重慶まで押し込められていく。この間、第2次国共合作により抗日戦闘が進められるが、太平洋戦争の勃発もあって次第に戦局が膠着。するとまたぞろ国民党と共産党の争いが芽を吹き出す。だが、共産党も1枚岩ではない。整風運動が進められる中で、次第に毛沢東共産党の代表に上り詰めていく。
 終わりは突然にやってくる。中国側には日本の降伏はもう少し先のつもりだった。日本降伏を受けて、国民党と共産党の両党の思惑と争いが激化していく。これについては次巻に続く。清朝崩壊後の中国の歴史は本当に面白い。

●済南事変は、日中関係はもちろんのこと、東アジアをめぐる国際政治でも大きな転換点となった。・・・英米両国が、国民政府に接近する立場から、日本に批判的になったことである。また、済南事変は、出先機関が事件を拡大・激化させ、それに軍中央・政府が追従して軍増派を行い、それを「暴支鷹懲」を叫ぶ世論が後押しするという一連の呼応関係の面からいっても、のちの日本の対中国侵略行動パターンをすべて備えたものであった。(P50)
●この時期の日本の外務省は、こうした「現地解決方式」をむしろ積極的に承認するようになっていた。中国側から見れば、「現地解決方式」は、現実面で譲歩しつつも、中央政府が直接に屈服しているという印象を和らげる効果が、それなりにはあった。ただし、それは華北の出先機関が日本の圧力を受けて逆に切り離されてしまう危険性と常に背中合わせである。(P144)
●日本の中国侵略は、・・・日本側の政治・経済的措置が拡大していくにつれて、それらは日本にとって国際的な軋轢・反発の形ではね返ってくることになった。・・・いわば、戦争自体が泥沼化しただけでなく、その泥沼であがくことが日中戦争の国際的拡大へつながってきったのである。(P205)
●党幹部・党員の忠誠に支えられた毛の権威は、整風運動を通じて次第に個人崇拝にまで高まっていくことになる。整風運動は「マルクス主義の中国化」を標榜するものであったが、現実にはスターリン流の党組織論・歴史観に範をとったものであり、その意味ではソ連で進行した党のスターリン化を中国でも推進しようとした試みとみることができる。(P218)
●中国の日本軍は、降伏にさいしても、中国に敗れたという認識は極めて希薄であった。・・・つまり、英米を相手にしていた本国が負けたので、中国相手に戦っていた支那派遣軍もやむなく負けたことにしたのだ、という理屈である。/こうした認識・・・から生じるねじれた大戦観・中国観は、当然のことながら、中国にたいする「戦争責任」の感覚を、英米への「責任」感覚とは異なる方向へ導いていくことになる。(P234)