久し振りに多和田葉子を読む。お盆などの長期休みでないとこの種の長編小説はなかなか読む気が起きない。読み始めると、ページ一面がびっしり文字で埋まる小説はなかなか捗らず、途中で投げ出したくなる。特に最初はいったいどういう展開になるのか、皆目見当がつかない。いや、まさかこのまま終わってしまうのかと、最後まで見当がつかない。そして実際そのまま終わってしまうのだ。言葉遊びの小説。
私は「雪の練習生」から多和田葉子ファンになったが、この種の言葉遊びの小説も多和田葉子の一つのスタイルらしい。ここまでの長編になると、多和田の奔放な言葉感覚が溢れ出て、それはそれで面白い。多和田自身の学生時代を思い出しつつ書いたのだろうか。そんな女学生らしい交遊と確執と性愛と感情や感覚が乱れ咲く。学舎内での多少のあらすじはあるがそのまま終わってしまうのはやはりちょっとあっけない。
合わせて4編の短編小説が掲載されている。「盗み読み」「胞子」「裸足の拝観者」そして「光とゼラチンのライプチッヒ」。うーん、どれもよくわからない。びっしりと書き連ねられた文章と奔放な場面展開。多和田らしい文章が煌めいている。
先頃発行された文庫「かかとを失くして」を購入した。少し後悔。今度はいつ読もうか。機が熟すまでまたしばらく書棚に眠らせておくか。
- 作者: 多和田葉子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/11/10
- メディア: 文庫
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●人の情に上下左右はない、淫乱な生活は水の中にも、書物の中にも、花の中にもあり、それと同じで、学ぶ心もあらゆる場所にある、だから、学ぶ心の真ん中に淫乱があってもおかしくない。(P50)
●金魚が水の中で回転するのを初めて見た時、わたしが網膜に焦げ目が出来たように感じた。その焦げ目はほんの小さなものだったが、それ以来、けっして消えることがなかった。それは視界の破れ目のようなものだった。この世に見たくないものが増えていけば、そのような破れも次第に大きくなり、人がやがて盲目に近付いていくのだろう。(P74)
●わたしには理解力と呼べるものは乏しかった。書の重さ厚さに毎日立ち向かう忍耐力もなかった。わたしは偶然開いたページから、自分の気に入った語句だけを拾い、書き写し、音読し、それを自分なりに変えていった。書は何のためにあるのでしょうか、読むため、理解するため、それとも研究するためにあるのでしょうか、とある時、尋ねた女がいた。亀鏡は笑って答えた。何のためと目的を持って生まれてきた人間がいないように、書にもまず目的などなく、とにかくただそこに「ある」、だから、そこにあるということをまず考えなければいけない、と。(P83)
●どんな読み方をされようと、漢字は動じることなく一つの映像としてそこにある。アルファベットと違って、漢字は音声化してもらわなくても激しくイメージを発散し続ける。漢字が花で、読み方は蝶々のようなものだ。いろいろな蝶々が飛んで来て、漢字の花にとまっては、また飛び去っていく。その軽やかさ、所有欲のなさ、いい加減さが私は好きだが、一種の不安を感じないわけではない。(P235)