「100分de名著」は毎週見ている。本書の元となった「100分de宗教論」は、今年の1月2日に、100分間の特番で放送された。が、正月だったこともあり、見逃してしまった。こうして本になって読めてよかった。想像していた内容とは全く異なり、面白かった。
1回の放送で4人の出演者がそれぞれ1冊ずつ、名著を紹介する。釈撤宗は、フェスティンガーほかの「予言がはずれるとき」を紹介しつつ、宗教は認知的不協和を解消する働きを持っているのではないかと主張する。釈自身が宗教家でもあるはずだが、宗教の心理学の視点で説明するというのは興味深い。最相葉月が紹介するのは、日本におけるロシア正教会の祖、宣教師の「ニコライの日記」。実利的な視点からプロテスタントを推奨する福沢諭吉や大山巌を批判する一方、日本人の信心深さからロシア正教布教の可能性を見出す点も面白い。
3人目の片山杜秀は、戦時中ベストセラーとなった杉山五郎の「大義」を紹介する。天皇を現人神として尊崇する天皇観や、戦後の人間宣言の必要性の根源に本書があったというのは初めて知った。最後に、遠藤周作の「深い河」を紹介するのは中島岳志。近代化とともに「私は」という主格で語ることが多くなっていることに対して、実は多くの場面で、我々は自らの意志に依らず偶然に去来した感情などに導かれて生きている。そのことを自覚し、与格的な生き方を提唱する。
4氏とも、必ずしも深く宗教的なものを語っているわけではない。特に、宗教に認知的不協和論を見出す釈撤収のドライな視点には少し驚いた。でも一方で、それでも宗教から逃れられない人間がいる。宗教とは何だろうか。本書を読んでも、結局、そのことがわかるわけではない。「宗教とは何か」は実は「人間とは何か」を問うているのかもしれない。
○【釈撤宗】人生における深刻な不協和状態において、宗教性や信仰がとても重要な導きになることは間違いありません。人は不安や苦悩があるから、いつの世も宗教を求めます。人生は不条理です…。生きる上での不協和が大きければ大きいほど、強い不協和低減力が必要となります、宗教は、人生の不条理ときちんと向き合ったり受け入れたりする機能を持っているのです。(P034)
○【最相葉月】明治維新では西欧化、すなわち社会の近代化が推し進められました。そんな時代と親和性の高かった教派はプロテスタントです。プロテスタントは勤勉であることを推奨し、聖書を重視して、日常的に聖書を「読む」習慣があるため、人々の識字率を上げることにも貢献します。つまり、プロテスタントであることは、教育レベルの向上に寄与し、仕事を得ること、経済的に恵まれることにも繋がるのです。(P060)
○【片山杜秀】宗教とは、あるいは信仰とは、私たち人間にとって、一瞬の“ビタミン剤”のようなものなのではないか。それ(神秘)を摂取(体験)することで、普段の生活では絶対に味わえない特別な感覚―いわば宗教的感激を一時的に得ることができる。それによって信心が生まれるわけです。その意味では、『大義』もまた、禅を通して無心になり、神たる天皇に帰一したという感激に駆動されることで書かれた、ある種の宗教書であると言えるでしょう。(P102)
○【中島岳志】与格には、さまざまなものが人知を超えたところからやってきて、人間はそれを受け止める器に過ぎないという感覚があります。…大津にとって信仰とは、「私が信じる」といった主格的なものではなくて、「私に信仰がやってきてとどまっている」といった与格的なものだったのではないでしょうか。…しかし、近代化とともに「私は」という主格が強くなってきて…以前はどこからかやってきていたものが、自分の意志や能力によるものに置き換えられるようになった。…その極端な例が自己責任論です。(P119)