とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

月の裏側

 レヴィ=ストロースはこれまで、文化人類学の大家として、また日本の著者が紹介する形でその名前を知悉していたが、レヴィ=ストロース自身が書いた著作をこれまで読んだことはなかった。図書館で検索をしていたらたまたまその名前を見かけたので予約し読み始めた。「月の裏側」というタイトルは、西欧(旧世界)からみた日本やアメリカの文化や歴史のことを言っている。中でも日本はヨーロッパと太平洋側全体との架け橋の役割を果たしたと言う。また、フランスと日本は旧大陸の西と東の端にある国として、ある意味で両極端にして同じ状況にあるとも言う。これらはいずれも、レヴィ=ストロースの日本に対する愛着を示している。
 本書は幼い頃に父親から浮世絵をもらって以来、深い愛着を持ってきた日本に対する様々な講演録や文章を集めたものだ。レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」の訳者であり日本を代表する文化人類学者である川田順造氏との交遊の記録と見ることもできるかもしれない。いずれにせよ、これらの小文のどれにおいても、レヴィ=ストロースは過分に過ぎる日本への愛着と賞賛を語っている。
 だがそれ以上に驚くのは、レヴィ=ストロースが日本のことを実によく知っているということだ。「古事記」や「日本書紀」は言うに及ばず、邦楽や日本画、書、さらには沖縄の伝統に至るまで、一般の日本人以上によく知っている。それは人類学者として当然のことなのだろうか。それでも一方で「その文化のなかで生まれ育った者でなければ、その文化の精髄は理解できない」と、文化に対する冷静な視線も揺るがせにしない。
 レヴィ=ストロースの思想に触れる書というよりも、レヴィ=ストロースを学び親しんだ者が、彼の日本との交流を楽しむ本と思った方がいい。その意味では私には難しすぎたし、何も理解できなかったと言ってもいいくらいだ。やはりまずは「悲しき熱帯」あたりから読み始めるべきだろうか。おいおい時間を見つけて読んでいきたい。

●人類学者として私は、一つの文化を他のすべての文化との関係になかに客観的に位置づけることは果たして可能であるのか、疑念を抱くのです。・・・ある文化のなかに生まれ、そこで成長し、躾られ、学んだ者でなければ、文化の最も内奥の精髄が位置する部分は、到達不可能なままにとどまるでしょう。なぜなら、諸文化はその本質において、共通の尺度で測ることができないからです。(P13)
●フランスが、モンテーニュデカルトの系譜のなかで、おそらく他のどの民族にもまして、思想の領域における分析と体系的な批判の能力を推し進め、一方で日本は、他のどの民族よりも、感情と感性のあらゆる領域で働く、分析を好む傾向と批判精神とを発達させました。(P34)
●日本人が・・・ある時は自然を、ある時は人間を優先し、人間のために必要なら自然を犠牲にする権利を自らに与えるのも、おそらく自然と人間とのあいだに、截然とした区別が存在しないことによって説明されるのかもしれません。自然と人間は、気脈を通じ合った仲間同士なのですから。(P126)
●おそらくすべての国のなかで日本だけが、過去への忠実と、科学と技術がもたらした変革のはざまで、これまである種の均衡を見出すことに成功してきました。このことは多分何よりも、日本が近代に入ったのは「復古」によってであり、例えばフランスのように「革命」によってではなかったという事実に、負っているのでしょう。そのため伝統的諸価値は破壊を免れたのです。(P128)