大日本大震災後の反原発デモを先導し、その長髪の容貌とともに一躍注目を集めた小熊英二。当時、「社会を変えるには」を読んだが、政治・社会思想史を網羅的に解説する教科書的な本という感想を抱いた。そもそも小熊英二は「1968」や「<民主>と<愛国>」など、戦後の日本社会を歴史的に振り返り、現代に至る意味と位置付けを問う類の本で高い評価を得てきた。安倍政権が批判的に語られる今、なぜ小熊英二はこういう本を書いたのか。小熊の父親の一代記を誕生から現在に至るまで淡々と書いている。どういう意味があるのだろうか。そんなことを思いつつ読み始めた。
これが意外に面白い。筆者の父親は大正14年の生まれ。北海道佐呂間村に生まれ、幼い頃に東京に住む祖父母に引き取られ、昭和19年に徴兵された。そのまま満州に送られ、敗戦後はシベリアに抑留。4年間の抑留生活の後に日本に引き上げるも生活は苦しい。父親が住む新潟、祖父母が疎開した岡山、妹が就職した東京などを流転し、数ヶ月毎に職や住まいを変える日々を送る。
抑留中の厳しい生活もさることながら、ソ連側の圧力の下で繰り広げられた民主運動の状況も興味深い。そして厳しい生活の下で結核を発症し、5年近くの結核療養所生活を経験。退院後、偶然入社したスポーツ店で頭角を現し、高度成長期に独立。ようやく安定した生活を手に入れた。年金生活に入る頃から今度はシベリア抑留時代の縁で朝鮮など外国籍抑留者の戦後補償裁判に関わっていく。
まさに波乱万丈という感じであるが、当時としてはこれが当たり前の庶民の姿だったのかもしれない。私の父は本書の謙二とは遅れること6歳下の昭和6年生まれ。一方、妻の父親は謙二と同じ大正14年生まれだ。私の父は謙二と同じ地方の生まれで高等小学校しか出ておらず、小規模な自営業を営んできた。一方、妻の父は謙二よりも上流な家庭で、大学まで卒業し、安定した人生を送ってきた。しかし戦争観は同年代の妻の父の方が謙二に近いものがある。わずか6年の差だが、戦争体験の時期が大きく影響しているようだ。そんな同時代の人を思い起こしつつ読むのも面白い。
人生は人それぞれ。そして時代や生活環境に大きく左右される。誰一人同じ人生を生きる者はいないし、一方で十把一絡げに語られ、忘れられていく現実がある。「あとがき」で筆者自身が本書の意義について書いている。わずか一人の特別な人生だが、同時に普遍的な社会と人生が描かれている。それこそが「歴史」の意義だと言う。そうかもしれない。一緒に聞き書きをしたという林英一氏にも興味を持った。何かの機会に林氏の本も読んでみたい。
- 作者: 小熊英二
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/06/20
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (7件) を見る
●戦争の長期化とともに、計画的な配給も機能しなくなった。・・・配給切符や米穀通帳があっても、配給所に品物がないという事態が頻発した。/1939年秋には、「外米」が食卓にのぼるようになった。戦前はコメの自給が達成されておらず、都市部の下層民にとって、台湾・挑戦・中国からの輸入米を食べるのは普通のことだった。しかしこの年にはそれさえ不足し、東南アジアなどから長粒種が輸入された。(P34)
●「自分は兵隊だったから、開戦の詔勅を書いた大元帥は、戦争に負けたら責任をとるのが当然だという感覚だった。戦争に負けて、何もかも変わったとも思っていたし、当時は退位すべきだという議論も世に出ていた」・・・ちなみに天皇に対する謙二の感覚は、元軍人のあいだでは、それほど珍しいものではなかった。とくに若い兵士や下級将校たちは、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓や、館長は艦と一緒に沈むべきだといった価値観を、軍隊で教え込まれていた。(P186)
●自分としては、国には恨みがある。国というのは、人間の心とは違う無機質なものだ」・・・「一時金にしろ謝罪にしろ、戦後すぐにやればよかったものを、出せ出せとあれだけ言われてようやく出した。国なんて機構に、そんな出し方をしてもらってもありがたくもない。(P375)
●人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったかを聞いた。シベリアや結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という問いである。/「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」/そう謙二は答えた。(P378)
●日本だけでなく、世界のどこにおいても、多くの経験や記憶が、聞かれることのないまま消えようとしている。自分の親族なり、近隣なり、仕事場なりで、そうした記憶に耳を傾けるのは、意義のあることだろう。/またそれは、語り手以上に、聞き手にとって実り多いものだ。なぜなら、人間の存在根拠は、他者や過去との相互作用によってしか得られないからだ。・・・歴史というものも、そうした相互作用の一形態である。それに意味を与えようとする努力そのものを「歴史」とよぶのだ、といってもいい。(P388)