とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ドアの向こうのカルト

 カルト宗教の洗脳から解けて戻ってきた人の手記ということだが、実は最初あまり期待していなかった。3年前の発行だが、その時には本を手には取らなかった。しかし今回読み終えて、非常に面白かった。

 普通のサラリーマンの家庭に生まれ、父親の渡米とともに母親が現地の日本人コミュニティの中でエホバの証人になる。そしてその子供であった筆者も、当初はクリエイティブなその性格から何かと違和感を持ったり反発を覚えたりしていたが、次第にその教義を受け入れ、信者となっていく。弟、妹、さらには父親までも。そしてさらには世界的本部であるニューヨークのベテルで働くようになる。日本の信者にとってみればあこがれの存在だ。

 だが、その教義ゆえに金銭的にきつい生活が続く中、次第に教団の教えに疑問を感じていく。そして「覚醒」。その前後の出来事は非常にドラマティックだ。それから筆者自身の手で家族を洗脳から解いていく活動が続く。そして再び平穏を取り戻すまでの日々をビビッドに描き出す。

 けっして劇的な表現がされているわけではなく、筆者の体験をそのまま表現しているに過ぎないが、しかしその間の感情や心持は親近感を持って迫ってくる。自分でも同じ境遇に置かれたら、きっと洗脳されるに違いない。だから洗脳された人々は決して特別な人ではない。筆者の母親の場合、渡米して慣れない環境の中で、満たされない気持ちの隙にその宗教が入り込んだのだ。そしてそれは誰にも起こりうる。

 最終章では、筆者の宗教観が描かれている。そしてそれは非常にまともで共感できる。共存できないなら、そんな宗教はやめればいい。しかし宗教がなければいられない人々がいる。どう生きていくか。それは人それぞれが自分自身で考え、見つけていくものだ。だがそれができない人がほとんど。ならば逆に、社会には洗脳で満ちている、と考えた方がいい。筆者が言うように、流行やブランドはそれ自体既にある種の洗脳と言える。だから我々は常に洗脳されている自分を自覚して生きていく必要があるのだ。筆者の体験は実は全く特殊なことではないのかもしれない。

 

ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録

ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録

 

 

○洗脳されている側には、「洗脳されている」という自覚が全くない。他のカルト教団を見て、「自分たちはカルト教団でなくて良かった」と強く思うのだ。鏡を見て我が身を直せという言葉はカルト教団には通用しない。・・・興味深いことに、エホバの証人オウム真理教も「真理」という言葉を使っている。「真理、真実、本当の答え」といった言葉を使う団体は、宗教にかかわらず・・・臭いと思った方がいい。(P142)

○神という霊の存在が人間の霊性を測る時に、集会や伝道での参加という「目に見える物質要素」を基準にするとは思えなかった。/エホバは信じる。イエスも信じる。聖書も信じる。しかしそれらは、組織と会衆の成員とは、別の話ではないだろうかと思い始めていた。・・・そして証人たちは基本的に、投げやりな世界観を持っている。・・・「どうせ何をやっても世は終わるから意味がない」・・・せっかく今回の人生を与えられているのに何もしない。ただ、楽園行きのバスをバス停で待ち続けている人たちの集団。(P231)

○神や目に見えない存在をどう感じて信じるかは、完全にその人の主観によるのである。薬のプラシーボ効果のように、その人がそう信じればそれは現実にも影響を与える。人はどの宗教であれ、それを信じるから救われるのだ。/宗教とはこの「主観」を「客観」に置き換える試みである。みんなでどのように神を感じるべきか、客観的なルールや方式を設けるのだ。だから個人の主観は否定され、教団によってそのように神を信じるべきかが規定される。その客観的なガイドライン聖典や教義にあたる。(P255)

○大抵の人は、他人によって植え付けられた価値観を自分の価値観だと思って生きている。ほとんどの重要な決断の根拠は、親、先生、上司、周りの人々の習慣や伝統によって決められている。自分で体験して結論を出して生きている人は非常に少ない。/洗脳に関して言うと、私のカルト体験談は確かに特殊で極端な環境だった。しかし程度の差はあれど、広い意味での洗脳は社会のあらゆるところで見られる。・・・流行だって軽い社会的洗脳から始まるものである。・・・ブランドとは価値の刷り込みでしかない。(P303)