これまで高橋源一郎の小説は何冊か読んできたが、それほど面白いとは思わなかった。初めて「これは面白い」という作品に出合った。でもほとんど話題になっていないなあ。「国家とは何か」を子ども目線で描く、というのが、胡散臭い感じがするのかな。でも、子どもの目線で書くと、色々なことを一から考えることができて面白い。昨年来、話題になった「君たちはどう生きるか」も、社会や人生を子ども目線で描いたものだ。子ども目線で書くというのは、社会批判の点からも有効な手段かもしれない。
作中で、シーランド公国や北スーダン王国について知った。いずれも公認されていない、しかし現実に建国が宣言されている国々。ランちゃんの「名前のない国(仮)」は領土こそないけれど、読者の心の中で建国宣言、ではなくて、建国のことばが響いた。国ってなんだろう。国って所詮、人間がつくりたいから、つくると都合がいいと考えた人がつくった人工物に過ぎない。それでやれ憲法だの、天皇だのと議論が姦しい。でも、その国の中に、自分だけの「くに」をつくればいい。そしてその「くに」の奥のずっと奥深い図書室の奥は、天皇家やイギリス王室にもつながっている。そこではみんなフラットな、服を脱ぎ捨てた人間同士の交流がある、てか。
タイトルがわかりにくい。「この国」ってなんだ? 「くに」じゃないのか? 「愛する」ってなんだ? ランちゃんは「名前のない国(仮)」を愛することに決めたっけ? もっと素直に「くにをつくる」位にしておけばよかったのに。でもこれでまた高橋源一郎を読む気が起きた。一時はもうやめようかと思っていたけれど。けっこう面白かった。
○わたしの考えでは、『おとな』というものは、自由にものを考えることができる陽とのことです。そして、たいていのにんげんは、自由にものを考えることが苦手です。ということは……ほんとうのところ『おとな』は少ない、というか、『おとな』になる、ということは、とても難しいのです。(P57)
○『おとな』というのは『ひとり』ではなすことができるひとのことです。たったひとり。条件というのは、そのひとに、名前があること。・・・ただ『ひとり』で、自分の名前をもっていて、それだけの条件で、なにかをはなす、あるいは、なにかを考える、それが『おとな』であることです。・・・自由にものを考えるためには、どうしたらいいのでしょう?・・・服を脱ぐ、ということは、とてもたいせつです。(P58)
○たいせつなのは、『くに』というものは、あるとき、ひとが人工的につくったものだ、っていうことだ。ひとがなにかを人工的につくるのには、なにか理由がある。・・・きみは、きみの思うような『くに』をつくればいいんじゃないかな。(P113)
○ぼくたちの「くに」の「こく民」になりたいひとは、だれでもなれます。他の国民のままでも大丈夫。そういうのは、二重国籍とか、三重国籍っていうんですよね。/もっと進んで、二重国家とか、三重国家なんていうのも、あっていいんじゃないでしょうか。国と国との間が溶けちゃって、お互いが融合しているとか。そんな感じです。国というものの表面が固いから、国同士の表面がぶつかるわけです。だったら、柔らかくして、お互いにめりこんだりするのがいいと思いますね。(P265)