とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

神とは何か

 「正義とは何か」を読んだ時も、途中でもう読むのはやめようかと思った。本書も同様、あまりに難しい。それでも最後まで読んでしまったのは、筆者が自らの論考をただ推し進めていくだけではなく、常に読者を意識して「こう思われるかもしれない」「こう考える人が多いのではないだろうか」と振り返りつつ、一つひとつ丁寧に論を進めていく、その誠実な姿勢に引き込まれたからに他ならない。しかしそれでもやはり難しく、わからない。

 知識ではなく知恵の希求こそが形而上学的探究であるという意味はわかるが、それを導いていく真理は、信仰と一体のものとしてあるという時、信仰を持たない私はどのように読み進めていけばいいのか。人間自体が善へ向かうべく秩序づけられているという意味も理解はするが、ほとんどの人間はそれを意識していないのが現実だ。

 そのようにして、書かれていることの意味はわかるが、最後のところは神を受け入れない限りはわからないのだろうと思う。それでも最後に「『キリスト信仰』は日本的霊性と無縁ではない」(P264)と言われると、多少は「神」も私たちに近いものとして感じることができるだろうか。

 それにしても、筆者の年齢をみると何と90歳。その年にしてなお、これだけの論考ができ、書物が書けるとはすごい。まさに神懸っている?

 

 

○われわれは通常、「知る」という働きによって真理を発見するのであり、真理は知る働きの結果であるかのように考えている。しかし「知る」という働きにおいて知る者と知られるものが「一」になるという「神秘」について形而上学的に探求すると、この「一」を成立させる根拠が真理なのであって、その意味では知ることが真理の結果として生ずる、ということがわかってくる。(P53)

○自己認識は高度の知性的認識の条件が満たされて初めて成立するのであり、それが……「自己が自己をそこにおいて認識すべき場を発見する」ということである。……このような自己認識は知識ではなく知恵に属するものであり、そして知恵の発見にともなって人間の生を根本的に旅路として現実に理解する道が開かれる、と言えるであろう。(P74)

○人間の意志が自然必然的に善へと秩序づけられているということは、人間という存在が善そのものである神へと秩序づけられていることに他ならない。つまり「私はどこへ行くのか」の「どこへ」は、人間の究極目的、善そのもの、神なのである。(P130)

○古代・中世のキリスト教神学者たちが「神が人間になり給うたのは、人間が神になるためであった」と宣言した時、彼らは人類の救いのためにはそのことが必要であったという「必要性」を確立することよりも、むしろこの不可思議で不可解な神の業は神の限りない慈しみと豊かな恵みに満ちた愛の顕示であることを自覚し、心に刻みつけることに関心があった、と言えるのではないだろうか。(P188)

○滝沢は「インマヌエル」すなわち限りない慈しみのゆえに人間となり給うた神という永遠・普遍の真理は、すべての人間が真実に自己に立ち帰ることによってそれに目覚め、真の人間として生きることが可能である、と主張するが、それはまさしく「絶対者の無辺の大悲」という日本的霊性の心髄に触れる発想である。(P228)