とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

パラレルな知性

 大阪大学の総長を務めた鷲田氏のことを知ったのはいつ頃だろう。内田樹を知った以降のことだったと思う。本書も、内田樹「街場の憂国論」を読んで、その存在を知った。「科学」などの雑誌や「あらたにす」、「京都新聞」などの媒体に寄稿したコラムを集めた本である。全部で56編。それを全5章に構成し収録している。
 「第1章 問い1―科学のエシックス」から「第4章 問い4―メディアの役割」まで、章のタイトルに「問い」という言葉がついている。第2章は「問い2―大学のミッション」、第3章は「問い3―コミュニティの課題」。「問い」という言葉には、読者も一緒になって考えようという意味がこもっているのだろう。
 書名の「パラレルな知性」とは、「専門的知性」と「市民的知性」のこと。専門家に向けて、専門知に閉じこもるのではただのスペシャリスト、プロフェッショナルであれば、専門外のことも一市民として捉えて考える「パラレルな知性」が必要だと述べる。もちろん研究者ではない我々も何らかの専門家であり、市民である。
 第3章「コミュニティの課題」、第5章「右肩下がりの時代に」では、時代の変化を描きつつ、我々はどう生きるべきかを問う。他人任せのクレーマーから脱し、相互依存できることこそ自立であると見定め、右肩下がりの時代の新しい生き方と幸福感の転換を促す。
 「あらたにす」に掲載されたコラムを収めた第4章「メディアの役割」では、メディアや行政、政治家に対して批判の矛先が向かう。他責感を感じるものもあるが、たぶん媒体がそうさせているのであって、鷲田先生としては、社会総体、そしてその一員としての自分自身に向けて書いていると思いたい。その言葉をいかに我々自身に向けられたものとして聴くことができるか。それがまさに最後のコラム「『聴く力』と『待つ力』」が我々に問うていることである。

パラレルな知性 (犀の教室)

パラレルな知性 (犀の教室)

複数の異なるコンテクストを編んでゆく力、そしてそれをとおして問題解決のコンテクストを創りだしてゆく力こそ、いまの日本の「市民」にもっとも必要だと考えてのことだろう。「専門的知性」と「市民的知性」とのパラレル・キャリアの養成、それがこの国の高等教育のまっさきの課題だとおもう。(P057)
●ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業ができる人のことであり、彼/彼女らにじぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人だということになる。一つのことしかできないというのは、プロフェッショナルではなく、スペシャリストであるにすぎないのである。(P112)
●リスク・マネジメントはだから、企業の取り組むべき一課題というよりもむしろ、「支えあい」というあたりまえの底が抜けてしまったわたしたちの地域生活、いいかえると「共同防貧」や「共同防災」の心得や仕組みが途絶えたわたしたちの日々の暮らしに対してこそ養成されているといえる。つまりそれは、見かけ以上に痩せ細ったわたしたちの地域社会の文化的課題なのだ。(P178)
●ふつう質問というのは、知らない者が知っているであろう者に懇願するようにして向けるものだ。「後生だから教えて」、と。が、ここでは、知っている者が知らない者に問うている。これは、知っているか知らないか、相手を験すことである。つまり、不信ということが前提としてある。・・・学校という場がこうした不信を前提として成り立っていること、そのことのほうが「学力」問題よりもよほど深刻であるとおもわれる。(P210)
●これからの多文化共生社会を生きてゆくうえで、ダイアローグとしての対話をする能力は必須の力になっていくだろう。その能力をそなえた人こそ、これからの時代の「熟成した市民」なのである。では、真の対話力を鍛えるために何をすればよいか。抽象的な言い方になるが、「聴く力」と「待つ力」を鍛えることから始めるべきだとわたしは考えている。(P289)