しばらく前、本書を図書館の書棚で見つけ、いったんは手に取ったものの、あまりの大部さにそのまま書棚に戻したことがあった。先日、池澤夏樹の「科学する心」を読んだら、本書が必読として取り上げられていた。それで改めて図書館から本書を借りてきた。まず予想外だったのは、筆者は生物学者ではなく文筆業だったということ。科学哲学が主テーマかとは思うが、進化論の専門家ではない。しかし驚くほど多くの本を読み、哲学も含む非常に広い視点から、進化論とそれを巡る現代的な論点について考察を詰めている。しかもこれが意外に読みやすい。池澤夏樹が「必読」とした意味も分かる。
本書では、まず理不尽な進化=絶滅について古生物学者デイヴィッド・ラウプの研究をベースに紹介する。本書のタイトルからすれば、これで終わっても不思議ではない。しかしこれはほんの序章(実際は第一章)。第二章「適者生存とはなにか」では、進化論について、学問的な自然淘汰説と、一般人が操る自然法則の威を借る言葉のお守りとしての進化論が併存している状況を説明する。そして本題はこれから。第三章では古生物学者・進化理論化のグールドの適応主義批判を紹介し、ドーキンスらとの論争とその結末を語る。
その分析を通じて明らかになるのは、進化論が「自然の説明」と「歴史の理解」の中間的な性格を有していること。そして最後に行き着くのは、「人間とはなにか」という問い。本書の最後は「理不尽さの感覚が、問いの往復路線へのチケットになるかもしれない」で結ばれている。すなわち、どこまで科学的な研究が進められても、所詮すべては理不尽なものによって左右されるということ。その少し手前には、
○1957年、……サルトルは、「マルクス主義はわれわれの時代の乗り換え不可能な哲学である」と宣言した。……いま私は、「ダーヴィニズムこそ、われわれの時代の乗り換え不可能な哲学である」と叫びたい気分である。(P413)
という文章も置かれている。進化論に仮託した人間哲学を考察した本と言えるかもしれない。
○自然―太陽も天体も隕石も、地球の自然環境も―は、べつに生き物のために動いているわけではないし、生き物の事情を考慮することもない。彼らは彼らの天文学的あるいは物理化学的な事情で動くだけだ。……理不尽な絶滅は、こうした自然の事情と生き物の事情の(ミス)マッチングによって起こる。……そのたびに理不尽な絶滅のシナリオは新たに書き起こされ、生物の進化を思わぬ方向に導いたのである。(P77)
○自然淘汰説……の役割は科学的仮説の生産だけではない。それと同時に、日常生活における言葉のお守りという機能をも担っている。……学問の世界では科学的な仮説形成のための根本原理である自然淘汰説だが、世界像としての暮らしの一部となるとき、それは自然法則の威を借るトートロジーとして召喚されるのである。……これが進化論の分業体制あるいは解離的共存である。……分業体制がうまくいっているように見えるのは……進化の理不尽さがうまく排除されているからだ。(P178)
○進化生物学という学問が「時間を超えた数量的な一般法則を扱う諸科学」と「歴史の特殊性を直接の対象とする諸科学」のあいだ……つまり「自然の説明」と「歴史の理解」のあいだのちょうど真ん中に位置している……。彼[グールド]の関心は、この進化論の中間的性格をいかにして守り抜くかにあった。進化論の二本柱―進化のメカニズム(自然淘汰)と生命の歴史(生命の樹)―の論理的な独立性と平等な関係は、進化論が進化論であるための条件なのだから。(P335)
○学問とは「方法」にもとづいて「説明」を行う知の総体である。……そうした諸方法の集合を私たちは学問と……呼ぶのである。……言い換えれば、非方法的な知識の探求は学問=科学にならない。/では、「理解」はなにをもたらすのか。それは学問的知識のおよばない真理の経験である。……方法が人間の知性の行使であるとするなら、真理とは私たちの感情を通じて与えられる認識や経験である。(P354)
○私たちの「人間」をどうするかという課題は、……「それは人間であることとなんの関係があるのか」と「それは進化/進化論となんの関係があるのか」という二つの逆向きの問いを発することによって、人間にたいする遠心化/求心化作用が示す軌跡を往復する運動にほかならない。それは、私たちは実際のところなにをしているのか、なにを求めているのかを認識する助けになるはずである。(P411)