とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

琥珀のまたたき

 「ことり」以来、久しぶりに小川洋子の長編小説を読んだ。今回の作品は、末娘を病で亡くして精神を病んだ母親に6年以上も幽閉され続けた3人兄弟の物語だ。姉と二人の弟。オパール琥珀と瑪瑙。図鑑出版に携わっていたという父親の残した図鑑の中から探し出した3つの鉱物名を新たな名前として、壁の中の生活を続ける子供たち。兄の琥珀色の眼には、図鑑の余白に死んだ末娘の姿が映っている。それを鉛筆で絶妙に描き出し、パラパラ漫画の要領で動きのある姿を呼び覚ます。

 芸術家が多く生活する老人ホームに暮らす「私」と琥珀の交流を交えつつ、三人兄弟の物語が進行する。ある日、行商の若者「よろず屋ジョー」が三人の前に姿を現す。年頃に成長したオパールはいつしかその若者に心を惹かれ、二人で失踪する。そしてちょうどその時、壁に挟まれた子猫を救うために壁の外に出た瑪瑙が水道検針係の女性に見つかってしまう。三人の生活が終わった日、ママは自殺し、琥珀は施設に収容された。

 あれから月日が経ち、琥珀もすっかり老人となって、今は老人ホームで暮らす。あれは本当のことだったのだろうか。それは図鑑の余白の中に隠れている。図鑑のページをパラパラとめくる時、三人の兄弟と4人目の末娘と、そしてママの5人の人生が生き生きと動き出す。人生なんて所詮そんな琥珀の一瞬のまたたきの中にあるのかもしれない。悲しくも美しい家族の物語だ。

 

琥珀のまたたき

琥珀のまたたき

 

 

○二人で話している間も彼の左目だけはこちらを見ていない。それは彼の名前そのもの、琥珀のような色合いを帯びている。半透明の中心に、黄褐色の光を浮かび上がらせ、ひんやりとした光沢に包まれている眼球。・・・もしかしたらその名前こそが、彼の左目に地層を閉じ込めてしまったのかもしれない。(P5)

○かつてあの子が生きていた頃の時間を、琥珀は一枚ずつ丁寧に切り離し、風に当て、光に透かしてくもりを除き、掌で温めてからもう一度組み立て直した。彼がやったのはつまりそういうことだった。(P118)

○図鑑の中はとても静かだ。世界中のありとあらゆる事物が詰め込まれているというのに、その余白は驚くほどしんとしている。どんな分類にも系統にも含まれず、すべての項目からはじき飛ばされ、ぽつんと取り残された余白が彼らを安堵させる。静けさはいつでも彼らにとって、一番馴染み深いものだ。(P119)

○三人の耳には、自分の歌声とともに、ページの巻き起こす風も一緒に届いている。あの子がちゃんとそばにいるのを感じている。/大丈夫だ。誰も欠けていない。壁は高く頑丈で、図鑑の地層は深い。世界のすべてがここにある。合唱を邪魔しない無音の声でつぶやきながら、琥珀は次のページをめくる。(P218)

○誰にとっても長い一日が終わろうとしていた。瑪瑙は壁の外を周回し、ママは魔犬と闘った。オパールはただただ心配し、琥珀は穴を掘った。・・・まぶたを閉じようとした時、琥珀は左目の地層に魔犬が埋もれているのに気づいた。ああ、そうか、自分が穴を掘ったのはこれのためだったのだと分かった。横たわってもなお、ツルハシは永遠に抜けない角となって深く食い込んでいた。三人でこしらえた死体にオパールが被せた王冠と同じように、頭蓋骨のツルハシが死の印となっていた。(P239)