とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「世間」とは何か

 「メッシと滅私」の根拠となった本ということで一緒に購入した。帯には大きく「日本社会の本質をえぐる歴史的名著」と書かれており、大いに期待して読み始めた。タイトルのとおり、世間とは何かを探る社会学的な本だと思って読み始めたが、どうやらそうばかりでもない。
 「世間」とは「社会」とは違い、自分に関わりのある人々の集団である。その中では暗黙のうちに合意され理解されているルールや掟があり、それから逸脱することは大いにためらわれる。世間は日本人にとって行動の基準であり、世間の掟を守っている限り安楽に生きていける。一方で、個人の自由は一定程度拘束され、個人の人権が守られているとは言い難い。「世間」とは「個人」との関係で考えていくべきものである。
 そんな序章があった後、第1章から第6章まで、万葉集古今和歌集で使われている「世間」の意味、鴨長明慈円による世の中、そして吉田兼好が捉えてきた「世間」、真宗教団における「世間」、井原西鶴が見る色と金の世の中、そして夏目漱石永井荷風金子光晴ら明治以降に欧米へ留学した文学者が感じた「世間」と、古今の文学作品を通じて、日本人がいかに世間を捉え、個人との相克を感じてきたかを膨大な引用を通じて辿っていく。
 それでほぼ全編が終わる。最後に短い「おわりに」で現代における世間と個人との関係を考えていくことの必要性を綴る。「世間とは何か」はある程度わかった。ではどう対処したらいいか。それはこれからそれぞれの人がそれぞれ考えていかなければならない。それで終わる。うーん。本当に知りたかったことは「はじめに」と「おわりに」にあって、その間はただじっと筆者の趣味につきあった気分。学術的には面白いのでしょうか。改めて筆者・阿部謹也氏のプロフィールを見ると専攻はドイツ中世史とある。「メッシと滅私」では阿部氏の他の著作も多く引用されていた。それらを読んだ方が面白そうだ。またの機会に読んでみようかと思う。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

●西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳を持っているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。日本ではまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。(P13)
●人間は死者と共に生きており、特に死者のもがりが済んでいない間は死者は危険な存在として手厚く祀らなければならなかった。・・・死者だけではない。日本人は動物も含めた周囲の生物、非生物と共に生きている・・・したがってそれらの自然界の存在と調和していない者には何らかの問題がると判断された。その状態がケガレである。(P69)
●いつの時代においても商業こそ自由と平等の契機なのであった。この自覚こそその出発点にあり、それはまず恋愛という形で姿を現したのである。恋愛こそ身分制度の桎梏を超えて人と人を結びつける重要な契機であり、それ故に身分を越えた恋愛は厳しい取締りの対象となっていたのである。(P123)
●わが国においては、個人の意識はこの百年間の事態の推移にもかかわらず、十分な形で確立しなかった。・・・したがって社会という言葉は、そのような事態を反映して、個人の尊厳とは切り離されて法、経済制度やインフラの意味で用いられており、人間関係を含んだ概念とはいまだなっていない。・・・私達は今でも日常の会話ではほとんど社会という言葉を使わずに、世間という言葉を用いているのである。(P176)
●世間をわたっていくための知恵は枚挙に暇がない。しかし大切なことは世間が一人一人で異なってはいるものの、日本人の全体がその中にいるということであり、その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。・・・そこで考えなければならないのは世間のあり方のなかでの個人の位置である。私は日本の社会から世間がまったくなくなってしまいとは考えていない。しかしその中での個人についてはもう少し闊達なありようを考えなければならないと思っている。(P257)