天使とは何だろう? その解は本書の1ページ目、はじめに書かれている。
○天使(エンジェル)の語源となったのは、ギリシャ語の「アンゲロス」で、神(神々)の「伝令」ないし「使者」を意味する霊的(あるいは半物質的)な存在とされる。(はじめにP1)
しかし本書では、「天使とは何か?」という直接的な問いは古くからの議論に譲り、初期キリスト教から現在にかけて、天使はいかに表現されてきたかを網羅的に拾い出していく。あらゆる時代、あらゆる媒体(絵画・彫刻・文学・音楽)を通じ、天使はさまざまに表現され、さまざまに扱われてきた。それをさまざまな角度から洗い出していく。
最初は異教の神々との関係である。キューピッドはギリシャ神話に出てくる美の女神ウェヌスの息子であり、愛の矢を射ることで人を恋に陥らせる。しかしこのキューピッドとエンジェルは時に多くの場合、混同される。筆者が紹介する多くの美術作品を見ても、キリスト教の天使や精霊はそれ以前の異教の裸童や精霊(プネウマ)などと渾然としている。聖書の外典には自然界の諸要素を「ストイケイア」と呼び、天使がこれらの運動などを司っていたという記述もある。
そもそも初期キリスト教の時代には、キリストが天使であるとする解釈も広まっていた。また、聖書にも熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、大天使(ミカエルやラファエル)など多くの天使が書き分けられており、堕天使(ルシフェル)や悪魔(サタン)と天使との関係も今一つ混沌としている。
さらに創世記では、美女に欲望を掻き立てられ、人間を妻にした天使のことが描かれている。外典である『エリク書』では、堕天使たちが人間に知識や技術を伝えたという記述がある。そして技術に溺れ、堕落した人間を救うために遣わされる4人の大天使(ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエル)。実に天使を巡る物語は躍動的である。
天使とは何だったのか? それは結局、自然界のさまざまな事柄を動かし、地異天変を引き起こし、神による創造と破滅を進める原動力に対して名付けられた言葉であり、想像物なのだろう。そして「おわりに」で書かれているように、天使とは人間にとって「想像力の別名」であり、「必要なもの」なのだ。現代においてもなお、天使は想像力を動かす力として生きているのかもしれない。
○「気息」とか「精気」とかと訳される「プネウマ」は、人間のみならず自然界をもつかさどる根本的な原理で、物質と非物質とのあいだにあるような存在とみなされ、これが身体器官に働きかけることで、気分が高揚したり沈んだりすると考えられた。・・・これを「精霊」と読み替えたのがキリスト教である。なかでも、マリアに入ってイエスを宿したのが神の精霊(プネウマ)である。・・・とはいえ、天使もまた「プネウマ」になぞらえられ、その名で呼ばれることがある。(P16)
○これら初期キリスト教時代の使徒たちの手紙が間接的に証言しているのは、・・・当時キリストを天使にたとえる考え方がたしかに流布していたらしいということであり、それゆえ、使徒たちは何とかしてそれを牽制しようとしている、ということである。(P45)
○武器の製造をはじめとして、貴金属や宝石の加工、染色や化粧などに至るまで、すべてひとりの堕天使アザゼルによって人間に授けられているのである。くわえてこの『エノク書』第八章では、魔術とその防ぎ方、天文学や占星術などの知識もまた、地上に落ちた天使たちによって人間に伝えられたことが語られる。(P140)
○オリゲネスによれば、この「自由意志」によっていちど悪に染まった者にも、ふたたび善へと戻ってくる可能性は残されている。堕ちた天使、あるいは悪魔にも救いの道はあるのだ。この点では、後に自由意志を認めながらも、アダムとイブの「原罪」以降にすべての人間は罪を背負って生まれ、神の恩寵によらなければ自由意志を働かせることはできないと考えたアウグスティヌスとは、やや見解を異にしている。(P144)
○天使とは本来、さまざまな宗教や神話のあいだのみならず、正統と異端のあいだの線引きすらも、その翼で軽やかに飛び越えて、人々の心身にそっと触れてきたものなのだ。・・・人は誰もがそれぞれに天使を培い、天使に守られ、天使を介して交わりあう。その意味において、天使は今日もなお(あるいはますます)、イスラーム学の泰斗アンリ・コルバンに倣うなら、人間の想像力の別の名前でありつづけているのであり、現代イタリアの哲学者マッシモ・カッチャーリの言い回しを借りるなら、「必要なる」ものなのだ。(P205)