とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

黒い海の記憶

 宗教人類学者・山形孝夫氏の講演集。これまで筆者である山形孝夫氏を知らなかったが、既に80歳を超えた碩学の研究者にして宗教者。東日本大震災後の被災者に寄り添った論説が胸を打つが、単に感動的なだけではなく、宗教学に基づいて、その所以を明らかにする。死者に寄り添って生きるとともに、死者が悲しみの生者に寄り添っている。死者とともに生きていく。それこそがすべての宗教の根源ではないかと言う。
 だが本書に収録されている講演は、こうした死に面した人々のための宗教論だけではない。本書のタイトルにもなっている「黒い海の記憶」では、原発安全神話宗教的な言辞である「犠牲のシステム」を隠し持っていることを指摘し、かつ糾弾する。「犠牲のシステム」は原発安全神話のみならず、西欧諸国による世界統治の道具として使われている。それはアメリカのイスラーム侵攻しかり、反ユダヤ主義のすり替えとしてのイスラエル建国しかり、そしてキリスト教が内包するイエスの贖いの教義の内実に筆者の目は向いていく。
 第3部で、「マグダラのマリアによる福音書」について考察する。一見、第2部までとは別のテーマのようだが、実は深いところでつながっている。外典としてキリスト教から排除された「マリア福音書」を読むことで、イエスの犠牲と贖いの教義こそが、実はローマ帝国による統治のシステムとして利用され、また当時のキリスト教団が政権者に取り入った結果ではなかったかと指摘する。「犠牲のシステム」を批判することは筆者自身の信仰の元であるキリスト教を批判することであるにも関わらず、それを乗り越え、死と悲しみの筆者独自の宗教論へ至る。そしてそれこそがイエスの求めた真の宗教「神の国」ではなかったか。
 実に深く清明で平和な心的世界へ我々を導いてくれる。心に爽快感が広がる。死者への悲しみと共に。久し振りに心から感銘した名著である。

黒い海の記憶――いま、死者の語りを聞くこと

黒い海の記憶――いま、死者の語りを聞くこと

●「悲しみ」とは、すべての宗教の根源にある記憶の「痕跡」の体験ではないかと思われてきました。そのことがわかると、「悲しみの知」は「癒しの知」に通じるように思われます。・・・イエスが語ったように、泣く者と共に泣き、苦しむ者と共に苦しむ。ここに、すべての宗教を一つにつなぐ源流というか、地下水のようなものがあるように私には思われるのです。(P58)
●「愛国者」とか「英霊」という言い方は、犠牲のシステムの肯定です。生き残った者は、死者の無念を自分自身の生き方として受け止めなければならない。死者との<共闘>です。・・・死者の無念を生者は生きるかぎり記憶し続ける。・・・それこそが死者への弔いであり、未来への遺産ですね。死者の語りを封印してはいけない。(P84)
●人は死者を記憶することを通して死者の悲しみと向き合い、悲しみを通して人生の究極の知であるような死者との和解と赦しという生の深層に辿りつくことができるのではないか。その時、過去の残酷な苦しみ・悲しみは反転し、優しさが未来から「千の風」のように近づいていくる。・・・死者を記憶すること、それが悲しみを慰めに変え、私たちの生き方を優しさの未来へ変えていく。(P104
●キリスト・イエスの死を贖罪あるいは犠牲死としてとらえるパウロ的十字架の神学が、ローマ帝国の政治権力と一体化し、世界統治の理念として利用された時に、いかに恐ろしい脅迫となり、暴力と化したか・・・『マリア福音書』の著者は、キリスト教ローマ帝国の権力と一体化することによって、帝国の支配原理の餌食となることに、懸命に抵抗していたのではなったかとさえ思わされました。(P148)
●西欧のキリスト教社会は、反ユダヤ主義に彩られた長い歴史の償いを自らの責任において償うことをしないで、一方的にパレスチナ人に押しつけ、肩代わりさせている。・・・見えてくるのは、まさにイスラームの犠牲においてイスラエル国家をつくるという巧妙な同士討ちの構図です。これこそが、第二次世界大戦後、西欧列強が設定した植民地主義的中東統治の犠牲のシステムであり、政治体制でありました。キリスト教的に着色された西欧中心主義の思想です。(P180)