とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

イエス・キリストの言葉

 マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの4つの福音書はそれぞれ編集・記述者が異なるだけでなく、その時代や対象とした読者層も違う。そのことにより、各福音書は、同じ伝承を素材としても、記述者の意図や理解が入り込み、違う内容のものになっているという。本書は新約聖書の有名な言葉や物語を取り上げ、各福音書における内容の違いを比較検討しながら、イエスの言葉や行動の真意を探る試みである。その中には筆者独自の革新的な解釈も含まれていることから、原理主義者からの批判もあったというが、現代的な人権意識や社会状況を踏まえた解釈は、現代を生きるわれわれにとって重要なメッセージにあふれている。
 特に筆者が指摘するのが、徹底的に弱い側に身を置いて権力側を批判するイエスの姿勢だ。律法・遵法に囚われる法学者を批判するだけでなく、男性中心主義における男性性そのものを批判する。弱い者や敵を「保護する」という「上から目線」ではなく、女子供が「するままにできる」社会を神の国と言い、敵を愛するのではなく、敵の隣人となりなさいと言う。
 人間が罪を背負うのはアダムやエバのせいではなく、法を守りきれない弱い存在だということである。だから、心の貧しい人は幸いであり、悲しむ人は幸いである。
 コンプライアンスが喧伝され、自己責任が主張される現代にあって、人間の原罪に立ち返り、人間の弱さを認める勇気を持つこと。それがイエスの教えを生かすということではないか。弱い者、汚れた者、罪深い者の隣人でありたい。敵の隣人でありたい。そうした社会こそが真にやさしい社会と言える。

●古代においては、誓いは何かに「かけて」行われた。とくに、それが「神の名にかけて」なされることが一般的であった。何よりもまず、そうすることをイエスは禁じている。とすればイエスは、人が神の名にかけて誓うことにより、自分の責任を神に転嫁し、それによって自分の行動を正当化することを禁じたことになろう。これから為そうとする自分の応答あるいは行動について、正直に、自分で責任をとれ、ということである。これが本当の「成人」の生き方ではないか。(P67)
●質問者にとって「隣人」は、愛の客体(対象)であるのに対し、イエスにとって「隣人」は愛の主体になっていることになろう。-あなたは隣人をあなたの愛の対象として探し出すのではなく、困窮者に対し、あなた自身が隣人となりなさい、と戒めていることになる。「愛敵」とは、このたとえによれば困窮している「敵」に対して「隣人になる」ことであろう。(P182)
●「神の国は、成人男性から人権を認められていない女子供のような人々のものである。だからはっきり言っておく。そういう女子供を受け入れるように神の国を受け入れるものでなければ、そこにはけっして入ることはできない。」この場合、女子供を受け入れるとは、彼ら彼女らを上から「保護する」というのではなく、人間としての権利を行使する主人公として、「来るままにさせておく」「するままにさせておく」という、彼ら彼女らに対する解放的かかわりを意味するものである。(P263)
●イエスはむしろ、律法を徹底・強化することにより、人間はもともと律法を守りきれるものではない、つまり人間は原初的に「罪人」なのだ、という人間の限界を露わにしている、ととるべきであろう。(P328)
●死を前にするイエスの言動は、いかにも「弱々しい」。しかし、だからこそイエスの死は、女性を始めとする民衆にとって「救い」となったのではないか。(P367)