とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

死生観を問いなおす

 著者はかつて厚生省に勤めており、「定常型社会・・・」などの著作と並んで、ケアや福祉の問題は著者の大きなテーマの一つである。「死生観を問いなおす」というタイトルは、ターミナルケアの問題を扱った著作かと思って読み始めたが、内容は全然違う。いや、まさに死に直面している人に「生と死の意味を問いかける」という意図がないわけではないだろうか、基本的には「時間論」であり、時間の先、または時間の奥にひそむ「永遠」を問うことで、生と死の問題に迫ろうとするものである。
 全体は4つの「旅」で構成される。最初の第一の旅「現象する時間と潜在する時間」では、宇宙論などから時間はいつ始まるか、時間とは何かをまず読者の俎上に乗せてみせる。第二の旅「老人の時間と子どもの時間」では、子どもと老人という大人にとっては一見余分に見える時間を生きる時期を照らし合わせ、輪廻転生に通じる円環的な時間のその意義について検討する。
 第三の旅「人間の時間と自然の時間」では、人間が生きて死に、人類が誕生し絶滅して、それでも流れる自然の時間に目を止め、自然の一部である人間という存在について話す。そして最終章の第四の旅「俗なる時間と聖なる時間」では、仏教・キリスト教における時間概念を検討し、それが人間存在や永遠と深い関係があり、かつ各宗教が時間観念の底の部分では通底しているのではないか、という考察を披露してみせる。
 ほとんど、時間に関する哲学的考察で満たされており、直接、死生観と言える記述は少ない。あとがきの最後に「生者の時間と死者の時間は連続している」という時、そこに著者の言わんとする死生観が現されているように読んだ。

死生観を問いなおす (ちくま新書)

死生観を問いなおす (ちくま新書)

●私たちがいま生きているこの宇宙、つまり誕生と同時に「時間」そのものも生まれたというこの宇宙は、それ自体はいわば「時間のない世界(無・時間性)」の中にぽっかりと浮かんでいる島のようなものではないか(P038)
●「生産」や「性(生殖)」から解放された、一見(生物学的にみると)”余分”とも見える時期が、「大人」の時期をはさんでその前後に広がっていること、つまり長い「老人」と「子ども」の時期をもつことが、人間の創造性や文化の源泉であると考えられるのではないか。(P076)
●私は自然の一部であり、自然あるいは生命の大きな流れの中に位置している。個人としての私は死ぬとしても、私の深い部分、自然につながる部分は存在し続ける。このような感覚が、「絶対的な無としての死」や、それのもたらす恐怖から、私を解き放つ大きな通路になるのではないか?(P127)
●人間は、もともと「内在」と「超越」というふたつの志向をもった存在である。つまり人間は、一方において、それを取り巻く世界に身を委ね、世界そのものを享受しそれと一体的なものとして存在する、というベクトル(内在性)と、他方において、自らをとりかこむ世界から抜け出し、世界をいわば一歩外側から認識して対象化し、そのことを通じて世界をコントロールする、というベクトル(超越性)の両方をもった存在である。(P164)
●もしも「絶対的な有」・・・というものがあるとすれば、それは他とのいかなる関係性ももたず、自己完結的に「すべて」であるような何ものかである。ならばそれは「絶対的な無」・・・と一致するのではないだろうか。そして、そのような「絶対的な有=絶対的な無」こそが、他でもなく「死」ということであり、また「永遠」あるいは「永遠の生命」であると考えられるのではないか。(P284)
●それは私自身もやがてそこに帰っていく場所であり、その限りで生者と死者がともに属する場所なのである。・・・それが回帰する「自然」の世界か、転変してやまない「輪廻」の世界か、より理念的な「永遠」の世界かは、その人の育った環境や文化や信仰によって違ってくるかもしれない。しかしいずれにしても、生者の時間と死者の時間は、私たち現代人が考えている以上に、もっと連続しているのであり、そして現在は、「生者と死者の共同体」ということの意味を、あらためて問いなおしていく時代なのではないだろうか。(P218)