とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

日本語読解能力の衰え

 内田樹の「日本辺境論」の後半に、日本語論が展開されていた。読後のエントリーにも書いたが、最近、日本語が読みづらくて困っている。
 本来、読書は一字一句、字面を追って読んでいくべきものだろうが、その際には頭の中に音が一音一音響いて刻むように読んでいく。しかし目は一度に数文字を視野に入れることができるため、音読(実際は黙読)している箇所よりも先にある印象的な漢字や文字が先に目に飛び込んできて、音読作業を妨げることが少なくない。
 集中しているときは目を音読スピードに合わせて動くようにするのだが、集中が途切れると自由気ままに目だけが飛び交って、音読箇所が少しも頭に入ってこない。理解ができない。それでも単語だけは見ただけで意味が頭に浮かぶから、何となくわかったような気になり、じっくり読むと全く理解していないことに気づく。こうした状況が年々ひどくなっているような気がするのだが、年のせいだろうか。
 昔は、目と脳の中の音読機能だけが同期して、先へ先へと進んでいくのだが、本を閉じると頭には何も残っていない。目を離した途端、何を読んでいたか理解していない。忘れているということがあった。いや、今もあるのだが、最近は目と音読機能も同期しない。視覚機能と音読機能と読解機能の三者がバラバラ
 そういえば、自分が何を話しているか、頭が理解しないまましゃべっていたということもありませんか。会話をしていて「え、ボクそんなことしゃべったっけ?」 それこそ「口からでまかせ」。
 でも昨日は逆に、司会を担当して、事前に考えていたことを話せなかったと落ち込んでいたら、今日「えっ、昨日ちゃんとしゃべってましたよ。」と言われた。しゃべったことを忘れ、考えてもいないことをしゃべっている。
 それでもって根っこにいる自我だけはますます堅固に頑固になっていく。つまりこれって老人力? なんか大丈夫かな。すごく心配。