とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ダンス・ダンス・ダンス

 村上春樹を読み返すシリーズの第何段だっけ。青春三部作と言われた最後の「羊をめぐる冒険」の続き、完結編に位置付けられる作品。いるかホテル、キキ、羊男。「羊をめぐる冒険」の主要アイテムがひと揃い登場して、北海道の山中で爆発して終わった物語のその後を描き出す。
 情けないことにわずか2年ほど前に読み返したばかりなのに、あらかた忘れていた。もういちど「羊をめぐる冒険」をパラパラと読み返してそのストーリーを確認する。まだ村上春樹も若かった。青春の勢いのようなものがあった。この「ダンス・ダンス・ダンス」に至って、過ぎゆく青春への愛惜や不条理を受け入れつつ流されて生きていく人生へのあきらめが感じられる。
 架空、虚構の完全性、幻想。そんな世界から逃れ、自分の世界、本当の自分らしさに繋がって生きたいと思う。しかしこちらの世界の向こうにはあちらの世界がひろがっていた。壁一枚を通していつでもすり抜けられるあちらの世界。しかしそれは白骨が横たわる死の世界でもある。死と闇が支配する世界。
 そして「僕」はこちらの世界に戻ってくる。こちらの世界で「流れのままに身をまかせて生きよう」と思う。それは取り立てて才能もなく平凡な生活を送る僕らにとって最高の慰めだ。自分に求められた生活を踏み外さないようにステップを踏めばいいんだ。ダンス、ダンス、ダンス。
 でもそれは架空の世界を受け入れることではない。自分のできること、自分のやりたいことを自分のできるやり方で生きていく、ということ。そしてそれが本当の意味で最高に個性的だということ。
 しかしそれにしても、村上作品の登場人物はどうしてこうまで簡単にセックスできるのだろう。誰かが「大人になれば誰でもこうした簡単に寝るんだと思っていた」と書いていたが、ホントそのとおり。
 昨日、友人がこんな話を披露してくれた。曰く、「妻がトルコで日本語教師をしていた頃、『ノルウェイの森』を題材にしたら、『どうしてこんなポルノ小説を教材にするんだ』と抗議された」と。「ダンス・ダンス・ダンス」ではそこまでではないけれど、確かに。イスラム圏ではなおさらだろう。
 村上作品のセックスシーンをどう捉えたらいいのか。まだまだ読み返し続けなければいけないようだ。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

●我々はみんな架空の世界で架空の空気を吸って生きてきた。でもとにかく、何か喋ろう。自分について何か喋ることから全てが始まる。それがまず第一歩なのだ。(上P16)
●「僕は本当にここに含まれているんだね?」「もちろんだよ。・・・そしてここはあんたの世界なんだ」と羊男は言った。・・・「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね。いろんなものを繋げるんだよ。ここは結び目なんだ(上P160)
●妻はコミュニケーションの自立性のようなものを求めていた。コミュニケーションが染みひとつない白旗を揚げて人々を輝かしい無血革命へと導いていくようなシーンを。完全性が不完全性を呑み込んで治癒してしまうような状況を。そういうのが彼女にとっての愛だった。僕にとってはもちろんそうではなかった。僕にとっての愛は不器用な肉体を与えられた純粋な概念で、それは地下ケーブルや電線やらをぐしゃぐしゃと通ってやっとの思いでどこかと結びついているものだった。すごく不完全なものなのだ。・・・でもそれは僕のせいではない。我々がこの肉体の中に存在している限り、永遠にそうなのだ。原理的にそうなのだ。(上P232)
●「ゆっくりとしかるべき時が来るのを待てばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。(下P97)
●僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとして幻想を与えられるんだ。(下P173)
●様々な物が失われていく、と僕は思った。失われ続けている。いつも一人で取り残されてしまう。こんな風に、いつもこんな風に。・・・我々はどちらも失い続ける人間なのだ。そして僕らは今お互いを失おうとしている。(下P280)
●どんなものでもいつかは消えるんだ。我々は移動して生きてるんだ。僕らのまわりにある大抵のものは僕らの移動にあわせてみんないつか消えていく。それはどうしようもないことなんだ。消えるべき時がくれば消える。そして消えるべき時が来るまでは消えないんだよ。・・・それは仕方ないことなんだ。流れのままに身をまかせよう。考えたって仕方ないさ。(下P314)