とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

めくらやなぎと眠る女

 先日、村上春樹の短編「図書館奇譚」を読んで、他の短編を読みたくなった。そこで2009年に発行された村上春樹の短編集を読んでみることにした。外国の読者向けに編集された短編集を日本向けに再発行したもの。表題の「めくらやなぎと眠る女」を始め、24編を収録。500ページに至る大冊で、持ち歩くのもためらわれ、夜、寝しなに読んでは睡眠薬代わりに読み進めた。そうして3週間、ようやく読み終えた。
 どの作品も村上春樹らしく、クールでウィットに富んでハートウォームだが、最も初期に書かれた「貧乏な叔母さんの話」(1980年)や「カンガルー日和」(1981年)と、2000年代になって以降に書かれた作品ではやはり完成度に少し差があるかなと思う。
 それにしても、「東京奇譚集」「神の子どもたちはみな踊る」「レキシントンの幽霊」など、これまで発行された村上春樹の短編集はあらかた読んできたと思っているが、今回読んでみて、覚えている作品が少ないのに驚いた。覚えていたのは「ハナレイ・ベイ」くらい。「蛍」は「ノルウェイの森」の一節として覚えている。「品川猿」や「トニー滝谷」はタイトルだけは覚えていたが、こんな内容の話だっけ。
 ということで改めて読んで、収録されている中でのベスト3は、「バースデイ・ガール」と「七番目の男」と「偶然の旅人」。でもまた10年後に読むと違う感想を持つのだろうな。それにしてもまったく覚えていないことに驚いた。そして何度読んでも、村上春樹はいいなあ、と思った。またいつか読み返そう。

めくらやなぎと眠る女

めくらやなぎと眠る女

●英雄と悪漢、陶酔と幻滅、殉教と転身、総論と各論、沈黙と雄弁、そして退屈きわまりない時間待ち、エトセトラ、エトセトラ……。どの時代にだってそういうものはちゃんとあったし、今でもちゃんとある。これからだってたぶんあるだろう。でも我らが時代・・・にあっては、そういうものがとてもカラフルに、ひとつひとつ実際に手に取れるようなかっこうで存在していた。・・・僕らはただ単にそのものを手に問って、まっすぐ家に持って帰ることができたのだ。夜店でひよこを一匹買うみたいに。(P99)
●理由も原因も、そんなものはどうでもいいことなのよ。貧乏な叔母さんはただそこに存在するのよ。貧乏な叔母さんというのは、その存在そのものが理由なのよ。私たちが特別な理由も原因もなくこうして今ここに存在しているのと同じことなのよ(P210)
●死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。・・・僕はその時それを言葉としてではなくひとつの空気として身のうちに感じたのだ。文鎮の中にもビリヤード台に並んだ四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸い込みながら生きてきたのだ。(P337)
●僕はそのときふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。・・・しかしもし僕らの方に強く求まる気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。・・・そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起るんだ。不思議だなあ』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないのもかかわらず。(P375)
●たとえば、風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。・・・風はあなたの内側にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。・・・彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。・・・私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく(P452)