とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

緑の家

 2010年ノーベル文学賞を受賞したバルガス・リョサの出世作。バルガス・リョサはいつか読みたいと思っていたが、ノーベル文学賞に先を越されてしまった。もっともそのおかげでこうして読むきっかけになったのだから、素直に喜ぶことにしよう。
 南アメリカの作家の作品は、ガルシア・マルケスもそうだが、賄賂や因習に満ちた社会を舞台に、日本や欧米作家の作品では想像もつかないような奇想天外で不条理な物語が展開する。この「緑の家」も、売春宿、インディオ、スラム街、私腹を肥やす行政官、治安警備隊など多様で複雑で面妖な物語だ。
 初っ端から、複数の話者と時間と場面が同時進行で自在に跳梁する文体に驚かされる。一つの物語ですらそういう状態なのに、複数の物語が次から次へと現れて、書き継がれる。一つの物語の時間順位も自由に前後する。頭の中で組み上げていくが、不思議にこんがらがらず、複数の物語がいつしか少しずつ溶け合いつながっていく。
 それでも読み直さないといくつの物語があったのか、最後に組み上がった全体像はどうなったのか、よくわからない。そこは訳者解説が非常にていねい。それによると全部で5つのストーリーが絡み合っている。さらにこの小説は筆者の実際の経験がベースになっていると言う。この小説が書かれたのは1965年のことで、その頃にはまだアマゾンの奥地には未開のインディオが住み、スラム街があり、腐敗した行政が営まれていたのかもしれない。
 しかし解説によれば、バルガス・リョサ自身は上・中流階層にあって、こうした母国の実態に驚き、批判していたようだ。その驚きや批判精神が小説執筆の動機になっている。しかしそれ以上にその奔放な文体、沸き出すような物語、そしてそれらが実に緻密に計算されつくされていることがすごい。人生も世の中も同じくらいすごい。解説を読みつつ、他の作品もぜひ読みたいと思った。

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

●こうした恩知らずな人間たちが夜の楽しみと女を求めるのを見かねたのか、ついに天が(ガルシーア神父に言わせると、「悪魔、いまわしいペテン師」が)彼らに喜びをもたらすことになった。かくして、騒々しい歓楽の不夜城<緑の家>が誕生した。(上P56)
●昔は寝転んでいても面白いようにもうかったものだが、近頃は僅かな金を得るにも一苦労だ。・・・このアマゾン地方で生きて行くというのは実際並大抵のことじゃありませんね。(上P301)
●あの店で働いている女、ガジナセーラの女、マンガチェリーアの住民、彼らは誰ひとりとして火に包まれ燃え落ちていく<緑の家>を見ようとしなかった。またしても、いつものように砂の雨が降りはじめた。この地上につかの間姿を現わした<緑の家>は、再び砂漠の砂に帰って行った。(下P58)
●「男同士の喧嘩なのに、どうして母親のことを引き合いに出すんだろうな?」とエル・ホーベンが言った。「母親というのは誰にとっても神聖なものじゃないか。」・・・「酒に酔ったり、司祭さんのところへ駆けつけたり、人を殺したり、人間はいろいろなことをするが」とエル・ホーベンが言った。「それもこれもみんな心に思い煩うことがあるせいだよ。」(下P114)
●「以前、悪魔は<緑の家>にしかおらなんだが」とガルシーア神父は空咳をしながら言う。「今では至るところにはびこっておる。・・・ピウラの町全体が悪魔の住む家に変わってしまったんじゃよ。」「お言葉ですが、神父様、このマンガチェリーアだけはまだ大丈夫ですよ」とアンヘリカ・メリセーデスが言う。「悪魔もこの町にだけはやって来ませんでしたからね。(下P427)
●「セバーリョス先生は何事も良しとする心境になられたようじゃよ」とガルシーア神父が唸る。「齢をとって、この世には何ひとつ悪は存在しないということを発見されたそうじゃからな。」「そう皮肉っぽい言い方をされると困るが」とセパーリョス医師が笑いながら言う。「まあ、そんなところだね。」(下P436)