とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

娘の自立心と共同体

 仕事柄、大学の先生にお会いすることがある。先日、娘が通う大学の同じ学科の先生と同席する機会があった。娘がその学科で学んでいることはお互い知っているが、特にこれまで話題にすることはなかった。ところが先日は少し話題に詰まったこともあって、つい雑談の中でしばらく前にあった娘の失態について話題にしてしまった。「それは大変でしたねえ」とのお言葉。
 そのことを昨日、娘に話した。そうしたらそれまで和気藹々としていた雰囲気が一変。娘が猛烈に怒り出した。「ゴメン、ゴメン。でも失敗したのは事実だし、しょうがないじゃないか。そのフォローで親は大変な目に遭ったんだし」
 初めは、失敗をしたことを恥じて、それが先生に伝わったことを怒っているのかと思っていた。でもどうもそういうことではないらしい。どうやら親のフォローを受けて事態を収めたことを恥じているようなのだ。
 失敗と言っても、電車の中で忘れ物をし、その対応で私が車で送り迎えしたというだけのことに過ぎないのだが(深夜でもあり、翌日の予定もあって私が運転した)・・・。
 しかし20歳を過ぎてなお、自分の失態を親に助けてもらったこと、それを先生に知られたことがイヤだったらしい(ちなみに妻は、単に自分の失敗が知られるのがイヤだっただけだとの意見。「男と女は違う」と宣っている。本当はどうかは恐ろしくて未だに聞けない)。
 それはそれで娘の自立心の発露ということでめでたい話だ。だが、家族という共同体の一員という視点からはまだまだ若いという気がする。
 家族は一つの共同体である。私が働いて得た賃金は全額、家族という共同体のものである。妻の家事労働は共同体のためである。もちろん私も共同体維持のために必要な家事は行う。子供は一人前の共同体の一員となるまでの間は庇護されるが、同時に成長を促される。娘が自立を望むのであれば、家族という共同体に対して何らかの貢献を果たさなければならない。それは別にバイト代を家に入れろというような話ではなく、責任ある言動は家族として尊重するし、委ねることもある(ちなみに私もよく車で送迎してもらっています)。同時に、共同体の成員はその共同体に属することで何らかの利益を得ている。それはギブ・アンド・テイクな関係であり、誇りや癒しである。
 だから共同体の一員の失敗のフォローを他のメンバーが行うのは恥でも何でもなく、当然の受け取りである。そうした共同体に属していること。それは社会の一員として認められるためにも重要なアイデンティティの一つである。
 別に家族のいない人を排除しようとするのではない。人は家族によらず、何らかの共同体に属して生きる存在ではないだろうか。人は重層的に共同体に包まれて生きている。それが社会的に生きるということだろう。失敗は怖くない。なぜなら人は失敗する生き物だから。怖いのは失敗が剥き出しになることである。そのためにも多重の共同体で包む必要がある。