とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

新しい共同体の思想とは

 「内山節と語る 未来社会のデザイン」3巻目は「共同体」がテーマ。だが、前半はもっぱら仏教の話が続く。ただ、単なる信仰ではなく、「維摩経」「勝鬘経」「法華経」を読む。「最近一番気に入っているのは華厳経」だと言う。私自身、仏教は経典を読む込むほどには興味はないが、筆者が紹介するそれぞれの内容はわかりやすく面白い。そしてそこで言われるのは、1巻でも主張していた「関係論」である。

 関係は実体でなく、関係が本質だから、すべては「空」である。さらに、差別の根本原因は「概念」にある。概念を消し去ってしまえば、差別もなくなり、すべては「空」となる。

 「市町村が全権をもつべき」という主張も面白い。そして市町村でできないこと(外交や交通ルールなど)のみを国や県に委託する。ただし、委託者として受託者である国や県を監視し、意に添わなければ従わない。外交・防衛問題は「沖縄県が決定権をもちつづける」(P127)。面白い。地域の防衛は地域が主体となるべき。まさにカブール陥落にあたりバイデン大統領が言っていたことではないか。

 第4章「変革の思想を再検討する」では「主体的な変革」を良しとする欧米の思想を否定し、「関係的世界のなかで役割を演じる」という生き方を示唆する。これもアメリカのアフガニスタン政策とその失敗を想起させる。絶対的に正しいことがあるわけではない。関係的世界のなかで少しでも視野を広くし、良い方向をめざす。そのなかで自分の役割があれば、それをひたすら行う。そうやって生を全うする。共同体とは、そうした関係性の範囲のことなのだと思う。

 

 

○「自然」…「労働」…「経済」…「暮らし」…「地域」…「文化」…「信仰」…いろんな要素がじつは相互性をもっていて一体的であるのが…伝統社会の特徴です。…そういういろんなものが一体的に展開できるような世界こそが、私たちが安心感をもって無事に生きることができる世界ではないのか。それこそが虚構ではない世界ではないか。…経済だけが暴走して結果的にはお金によって支配される。…その虚構がいま維持できるかどうか怪しくなってきた。(P51)

○関係のほうに本質があるといっても、関係は関係なわけで、実体そのものではないから、関係は実体的にとらえることができない、その意味で空であるというのが仏教のとらえ方です。私たちがみえている世界、これも関係がつくった世界にすぎない。関係こそが本質だからこの世界もまたすべて空ということになって、「我も空ならば世界も空」という、こういう立場を仏教はとっていきます。(P74)

○差別の根本原因は何かというと、「概念をつくったこと」だというのが華厳経の立場。概念をつくってしまったために、表面的には差別でなくてもじつは奥のほうに差別がある。/たとえば「男性」「女性」という概念をつくった。その結果として女性差別が起きる。…最後は、「仏」と「我々」というのも概念なのでそれも必要ではないということになる。…差別否定が概念否定になっていく…最後は仏にこだわる必要もない(P82)

○人間や自然と寄り添えるような範囲の自治体が全権をもつべきだと僕は思っています。…ところが市町村が全権をもったときに、市町村でできないことはいっぱいある…だから…制度としては、「本来、市町村がもっているものを県や国に委託します」というやり方です。委託ですから、「委託先がしっかりやるか監視します」ということでもあって、委託先があまりに意に沿わないようなことを決定した場合には、従わないという宣言をすることができる。(P126)

○自分の役割を発見する。役割がみつかったら、小さな役割から大きな役割まで、役割をこなす。役割をこなしていくときに社会と対決する必要性が出てくるなら、「本当にちゃんとした社会だったら、こんなことはしなくてもいいんだよね」と思いながら、でもそういう悲しさも引き受ける。それも役割を引き受けるということです。(P152)