とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

若者を見殺しにする国

 赤木智弘の「『丸山真男』をひっぱたきたい―31歳フリーター。希望は、戦争。」は話題になった当時読んだような気がしていたが、改めて全文を読むと、すっかり忘れている。いや、読んでなかったかもしれない。
 この話題となった論文と、その続編である「けっきょく、『自己責任』ですか―続『「丸山真男」をひっぱたきたい』『応答』を読んで」を掲載するとともに、これを発表するに至った経緯や個人的な略歴、さらに論文を補完する考察として、第1章「強大な敵としての俗流若者論」、第2章「私は主夫になりたい!」、さらに第5章「どうすれば貧困層を救い出せるのか」、第6章「『思いやりのある社会』への希望」が加えられている。東日本大震災後に書かれた「文庫版あとがき」も興味深い。
 「希望は戦争」で筆者が訴えたことは、「戦争が起きて、平和が打破され、社会に流動性が発生することを望む」(P256)ということである。このうち、筆者の最も主張したかったことは後者の「社会に流動性が発生することを望む」であったはずだが、論文掲載後の応答は「戦争は希望となりうるか」に終始し、筆者もこれについて多く反応してしまった。
 筆者の論点でユニークなのは、「戦争」よりも「平和」の定義である。すなわち、「ささやかな今の生活が継続すること」が「平和」だとする平和論者は、安定労働層の既得権者であり、その手前勝手な「平和」を守るために、団塊ジュニア世代を「死」に追いやろうとしていることを自覚していない、と批判する。そこから左派批判に展開していくのだが、これはかなり左派知識人層を自省させたのではないか。
 リーマンショック後の年末派遣村などの一連の騒動は、この「希望は戦争」が均した左派批判の上に開花したと言える。その点でも赤木智弘氏の時代に果たした役割は大きい。そして本書の「文庫版あとがき」で筆者はさらに次の地平へ論を展開させている。

●私は「希望は戦争」において、人が死ぬことでしか変わることを期待できない社会を批判しました。/では、私が望むことはなにか。それはこの社会が、人が死ななくても変われる社会であることです。/我々は平時の時こそ、この社会を変えて行かなければならないのです。/もし、災害が来ることでしか社会を変えられないとしたら、それは人間の敗北です。/人間の生み出してきた、文化や科学、そしてなにより人間の知性の敗北なのです。(P381)

 私はこのことがそのまま正しいとは思わない。むしろ赤木氏はなんて好人物なのだろうと思うばかりであるが、この楽観性が「希望は戦争」にも通じているのだと思う。なんていい奴なんだ、赤木智弘「赤木智弘の眼光紙背」には少し飽き気味だったが、代わりに「深夜のシマネコBlog」は読み始めようと思った。

若者を見殺しにする国 (朝日文庫)

若者を見殺しにする国 (朝日文庫)

●私が考えるに、年金はけっして「社会保障」などではありません。社会保障だというなら、その保障が必要な弱者のみが受け取るべきなのです。ところが、年金制度は「高齢者」が弱者であると一方的にうそぶき、バブル崩壊後の社会に放り出された金のない若者から金を奪い、高度経済成長の世界をぬくぬくと生きた高齢者に金をわたすのです。こんなものは社会保障ではなく、国が斡旋する超高利回りな金融商品です。(P92)
●私は「悪のオウム信者」に対する恐怖よりも、オウム信者という悪を、表層的な情報だけで根こそぎ葬り去ろうとする「社会の正義」のほうに、はるかに強い恐怖を感じました。そしてその恐怖は、「既得権益層だけに、自由と平等と安心と安全を保証しようとする現状」として、まさにいま、私の眼前に立ちはだかっているのです。(P133)
●私たち貧困労働層は、安定労働層の「平和」のためのスケープゴートにされてきました。最終的には、安定労働層が望む「平和」のために、ポストバブル世代は「見殺し」にされます。・・・そこで、安定労働層が望む「平和」を達成するために、社会は「ポストバブル世代に対しては、なにもしない」という選択をすることになります。(P339)
●「私たち」は若者を見殺しにして、バブル後の不況を乗り越えようとしています。そして、アルバイトや派遣労働者として安い時給で若者をこき使い、十分な利益を得て、経済も活性化しつつあるいま、もはや彼らは不要です。職業訓練も、給料も、結婚も、年金も、彼らに与えるべきものはなにもありません。彼らは、この国のために黙って死ぬべきなのです。(P365)