とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

サッカー「真」常識

 「武藤文雄のサッカー講釈」で本書を絶賛していた。そこで興味を持って書店でパラパラと立ち読みしたが、204ページで字も大きく、青少年向け読本かと思い、購入をためらった。しかしどうにも気になり、図書館で借りて読んでみた。なるほど、確かに、これは名著と言っても過言ではない。言葉を多く説明をするのではなく、事の核心をずばりと書いて、かつ目からうろこが落ちる。「『真』常識」というタイトルがまさに内容を言い当てている。
 「サッカーの試合の究極の目的は、相手より1点でも多くゴールを決めて試合に勝つことだ。」これはどんな本にもよく書かれている。しかしその後が違う。そのためにはシュートの確率を高める必要がある。そのための戦術であり、技術であり、守備である。さらに言う。
 サッカーとハンドボールとの違いは、手か足かではなく、ボールがつかめるかどうかだ。フォワード・パスを認めたことで、サッカーというゲームはサッカーになった。フォワード・パスがなければ、ボールは人間のスピードよりも早く前に進むことができず、ジャイアンツ・キリングも起きない。オフサイドがサッカーを面白くした。オフサイドがなければ、今よりずっと守備的なつまらないゲームになっていたはずだ。
 そんなサッカーの本質を鋭く指摘するだけでなく、監督の仕事とは、引き分け狙いは可能か、2-0は危険なスコアという俗説、日本人がシュートを打たない訳など、サッカーにまつわる「真」常識が満載。
 わずか数時間であっという間に読み終えてしまったが、数日かけてサッカー戦術論を読む位なら、ずっと濃縮された意味ある時間を過ごすことができる。これはやはり一つの名著である。

サッカー「真」常識 (学研スポーツブックス)

サッカー「真」常識 (学研スポーツブックス)

●サッカーの試合の究極の目的は、相手より1点でも多くゴールを決めて試合に勝つことだ。最後にシュートを決めるのは、キッカーのシュートの(キックの)技術である。最後にシュートを打つ選手に、フリーで、前向きでシュートを打たせれば、決まる確率を高めることはできる。そのために行われているのが、ゲーム戦術や相手との駆け引きを駆使してゴール前にフリーのスペースを作り、そこに味方が入り込んで前を向いてシュートができる形を作ること。そして、守備を整備して、ゴール前で相手のFWをフリーにしないこと。/それが、サッカーというゲームの攻防の本質なのである。(P033)
●フォワード・パスが認められているかどうか。それは、手を使えるかどうかということ以上の、サッカーとラグビーのルールの最大の違いといっていい。・・・フォワード・パスが認められるようになると、サッカーではパスが最も有効な攻撃手段となった。サッカーというのは、ドリブルで前にボールを運ぶドリブリング・ゲームではなく、パスを使ってボールを前に進ませるパッシング・ゲームになったのだ。(P108)
●サッカーというゲームが面白いのは、手を使えない、つまりボールをつかんで保持することができないために、中盤での「ターンオーバー」が可能となり、それによって中盤での攻防が激しいからである。その上、フォワード・パスが認められていることで、パスのコースが複雑化する。そして、守備側がオフサイド・ラインをコントロールできることによって、守備側がゴール前に引いて守ることをせず、ラインを高く設定して、中盤で相手にプレッシャーをかける守り方をするようになった。(P116)
●日本人がシュートを打たないのは、別に農耕民族だからでもないし、平等主義的な教育のためでもない。シュート決めたら気持ちがいいのは、農耕民族だろうが、狩猟民族だろうが同じはず。日本人がシュートを打たないのは、要するにシュートが下手だからなのではないか。シュートがうまければ誰だってシュートをしたい。自信があれば打つはずである。(P162)